憲法改悪! 集団的自衛権絶対反対!!
平和でなければ育たない
平和でなければ美味しくない
「仲良くやろうよ」っていう国だったはずなのに
ケンカでかたをつけようだなんて.....
日々の慰安に埋もれても
見て見ぬ振りなんかできない
集団的自衛権&憲法改悪には断固反対です!

前 文
 日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは,平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第九条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

核も原発も根っこは一緒
かつて「美しい国」と言っていた人がまた、
この国の首相になりました。
これだけ放射能で、私たちの大切な古里が汚されているというのに。
直ちに原子力に「ストップ」をかけなければこの国はおしまいなのに...。
何を見て美しいと言うのでしょう?
憲法を変えることで今度は、強靭な国にしようと言う...。
誰が汚してきて、
誰がこれからも汚し続けようというのか。
注視(監視)していかなければ、大変なことになります。
核兵器も原発も憲法問題も沖縄、オスプレイも、みんなみんな
根っこが同じということに気がつかないと...。
忘れることはもはや、犯罪ではないかとさえ思うのです。

もう二度と騙されてはいけません
すべては3.11を基点にやって行くしかないのです
東日本大震災、福島第一原発事故から2年半が過ぎました。
「果物王国福島」のことは、同じ桃農家・りんご農家として
絶対に忘れてはいけないと考えています。
HPやツイッターもいいですが、
それぞれの人がそれぞれのやり方で
先ずは身近な所から始めればいいと思います。
僕はギターを友に、これからも歌い続けていきます



昨年(平成24年)の3月11日、我家の田んぼの前の道路際に、「脱原発」看板立てました。
どうしたら忘れずに伝え続けていかれるだろうかと考え、思い切って決行しました。

原発事故・震災被災地視察旅行に行ってきました
さようなら原発10万人集会(7月16東京)に参加された方へ」というお知らせが東信医療生協より届き、西沢弘行理事長を代表とした23名で、3月29~30日、福島県いわき市、及び周辺津波被災地の視察をしてきました。29日朝7:00、東信医療生協を出発、渋滞の影響を受けながら12:30過ぎ、いわき市にある小名浜生協病院併設、浜通り医療生協に到着。若い職員さんに案内していただきながら、予定を変更し、3月25日に一般車両の立ち入りが解除された富岡町まで、津波の爪痕の残る海岸線を一路北上。

 千葉や茨城と船団を組み遠洋に出かけても、いわきの港に下ろすだけで売れないとのこと。同じ魚なのに…。国道6号線に入ってから3台の測定器で線量を量る。(バス内)0.35μs_広野町0.2μs~楢葉町0.29~0.5μs_富岡町0.97~2.0μs…。道路沿いの広い田んぼでは、直径1メートルくらいの黒い袋に、はぎ取られた表土が入れられ、所狭しと積み上げられていた。忙しそうに動き回る除染作業員、ふと、手抜き除染について考えてしまった。どこぞの総理大臣が視察に来る直前など、広大な土地の草を巨大な草刈り機で2日で刈り取ってしまったらしい。復興しているように見せるためとはいえ、あまりの姑息さに、あきれて物が言えない。

 福島第二原発の排気塔を山間(やまあい)に見ながら楢葉町に入ると、すれ違う車は原発事故関係or除染作業車両だけになってくる。作業員のためのプレハブ棟が山の中にどんどん造られ、原発事故の影響で廃業になったレストランや、ラブホテルまで宿舎として使われているらしい。富岡の商店街を通り抜け、富岡駅にて現地説明、写真撮影軽トラや、乗用車が飛びこんだ中華料理店、ねじ曲がった駅舎など、地震、津波、原発事故のトリプルで、犬や猫はおろか、あらゆる生物に見放された町。ここは福島第一原発から10kmの地点…。
 駅構内「車椅子」の表示ペンキを見ながら、「助け合うこと」について考えてしまった。実はここへ来る前は、理屈をつけて「頭で考えていただけ」だったのかもしれない。いろんな原発に関する勉強会やデモに参加してきたけれど、これだけのことを目の当たりにすると、「胸の奥で考える」ことがいかに大切かと思い知らされる。この事に気づいたことが一番の収穫だと感じた。

 帰りは、最初に行く予定だったJビレッジ(広野町)を見に行く。ここは福島第一原発7・8号機増設を急ぐために、東電が福島県に寄付した135億円(電気料金に上乗せ)でできたサッカー練習場(なんと11面)とのこと。事故後は避難所として使われたが、今では全て芝生がはぎ取られ、事故対策関係の資材置き場や駐車場になっている。メインの建物の正面玄関には日本代表の写真が大きく掲げられていた。トルシエや岡ちゃん、当時の選手たちはどんな気持でここに通ったのだろう?こんな物で少年の夢をひねり潰してしまったことの罪は余りにも大きい。取締まりの検問を抜け、いわき市へ。
 浜通り医療生協に戻り、伊東達也理事長より、「福島原発事故被害・いわき訴訟問題」と題して貴重なお話を聴く。資料には2005年3月すでに、地震学者の石橋克彦教授から福島第一第二の危険性が指摘されていたとある。こうなると、結果論的には原発問題だけれど、経過論的には1割が原発で、残りの9割は人災ということになる。つまり、この9割の部分を人間として乗越えない限り、何度でもメルトダウンは起きるのでしょう。資料を読み、説明を聞きながら、「当事者」の言葉の重みを感じた。交流会を終え、いわき市内の宿舎へ。

 翌30日は、伊東理事長に、薄磯の海岸沿いを案内していただきました。海に一番近い所に中学校があり、校舎壁面の「祝 東北中学校バレーボール大会」の垂れ幕が痛々しかった。この地区では津波で、200人もの方が亡くなられたそうです。海水浴客用のスピーカーは、海を向いていたため、陸の人間には聴こえず、防災の役に立たなかったそうです。基礎だけの荒野に、一生懸命「人間の暮らし」を探しました。「あれ、浴室かな?」「あそこに便器だけ残っている」etc…。その後はいくつか観光地を巡りながら、小名浜港にある産直ショッピングセンターへ。
 昼食の前に自由行動があり、センター内で催されていた「震災関連の展示コーナー」を見ました。軽い気持で入ったのに、子供たちのメッセージとかに圧倒。段ボールで仕切られた避難所の再現や、ラップに包まれた「塩むすび」を見たとき、一気に涙腺が決壊してしまいました。中段「胸の奥で考える」について書きましたが、人と人との繋がりにおいて、「意気」というものとか、頭で考えるよりも大切なものがあって初めて、助け合えるんじゃないだろうか?と思います。

 津波被災者と原発被災者を、どこかで線引きしている自分がいたことは事実。私は、助けてあげたいという気持に違いがあるとは思えない気がする。構造的に違いはあっても、「心で見て胸で考える」ことからスタートしなければ誰とも共有できないと思うから。その後センターで昼食を取り、帰途につき18:00ちょうどに無事、東信医療生協に到着。
 最後に、東日本大震災被災地は復興も収束もしていません。ゼネコンが造って壊れた原発を、同じゼネコンが下請け業者を泣かせて、儲けている。いわき市小名浜の海に、ろくでもない人工島を作ろうとしている。とにかく、見てきたこと知ってしまったことは、自分だけのものにしていてはいけないと思い、投稿しました。
忘れないために、忘れさせないために…。
東信医療生協の方、誘っていただいて本当にありがとうございました。
   
付記
「塩むすびをもらった女の子のメッセージ」
3月11日…。
あの日、津波で家をなくし母も亡くした。
連絡のとれない母を捜して
避難所の中学校で掲示板に母の名前を書き、
校内放送で何度も母の名前を呼んでもらう。
いつの間にか、二日が過ぎていた。
その日の夜、おにぎりを配っていた。
「ひとつ、もらえますか?」
制服を着た女子中学生が渡してくれたのは、
ラップに包まれた、真っ白な塩むすび。
頬張ったら、急に涙がこみ上げてきた。
初めての…涙。
おいしくて、悲しくて泣いた。
あの塩むすびの味を、忘れない。

その他の写真はココにあります

この曲を聴いてもらえれば、アメリカに原子爆弾が落とされた日本に、どのような経過で原子力発電が持ち込まれ、現在に至ったのか、よく解ります。
20分と、とても長い曲ですがぜひとも聴いていただけたらと思います。
FRYING DUTCHMAN humanERROR