丸子町大字腰越字一本木
                 諏訪社
              御柱祭
       御柱祭の意義 意味
       「おんばしら」の準備
       腰越「おんばしら」祭の返還
       おんばしら祭の実際
       「中村梅児」の研究 IN
この資料は「丸子町民族行事集ー祭り編」
                民族行事集作成委員会(丸子町公民館内)
                              発行日 昭和56年3月20日  
 上記より抜粋したものです。
 腰越には町組・向井組・深山組にそれぞれ産土神であった諏訪社があり、祭神は
いずれも、大国主命の第二子、建御名方富命とその妃八坂刀売命である。年末に
なると氏子総代が歳神様といって各戸にお札を届けてくれるが、その中に八重事大
主命のお札もあるが、これは建御名方富命の兄神で諏訪の下社にまつられている
。創立年月は三社とも不詳であるが、明治6年(1873)村社に列せられている。祭
日は現在4月21日である。
 町組諏訪社
腰越字一本木にあって社地は東西27間(49m)、南北23間3尺(42m)、面積632坪
(2089u)、本殿・拝殿・鳥居を具備している。現在の社殿の造営は大正13年(1938)
におこなわれている。境内に欅の老樹があり周囲約6m、樹齢600年と推定されてい
る。明治44年(1911)までの祭日は7月24日であった。
 元来腰越は文治2年3月(1186)依田庄前斉院御領と古文書に見えているがそれ
以前のことは一切わからない。そしてその時から腰越という名前は今日まで変わって
いない。この間790年の歳月である。
御柱祭
 諏訪社の大祭は何といっても7年に一度の御柱際である。
 ふつう「おんばしら」といってるが、これは式年造営・式年遷宮の行事を形どったも
ので、ある一定の年限をきめて社殿等一切の建造物を建て替えることである。
 諏訪大社が寅年と申年の7年目ごとであるので腰越の諏訪社もこれにならってい
る。
「諏訪大明神絵詞」では「寅申の干支に当社造営あり、一国の貢税・永大課役・桓武
の御事に始まれり」とあり、今から1175年も前から造営が始まっているわけである。
坂上田村麿征夷大将軍が東北征討の際、諏訪大明神の神助によって功をおさめた
ことを復命したことにより、勅令によって諏訪大社の式年造営を信濃国一国に下され
  たという。北篠高時の大造営目録、武田信玄の諏訪社造営帳では、鎌倉時代まで
  これが続いてたという。そして小県依田庄十六郷は春宮二の柱が課役されていたと
  いうことである。この諏訪大社からの分社の記録はつまびらかではないが、腰越の
  諏訪三社の行事はやはりこれにならっていたものと考えていいであろう。
 

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  御柱際の意義・意味
   「おんばしら」の意義とか意味は、その時代時代によって人の解釈が違っていたよ
  うである。室町時代になると「おんばしら」は四方の守護神といったように、江戸・明
  治とそれなりきの意味は変わっているようだが、一貫していることは「おんばしら」は
  造営の代り、社殿を建て替える代りに建てるものだということのようである。
  「おんばしら」は見るより、みんなといっしょにひいてみろという。七年目ごとに来る「お
  んばしら」は何百年もの昔から続いている人間の血脈のように、そして人間同志の共
  同体のように力強く、今日から明日への新しい息吹きがみちみちているようである。  
   今でもそうだが「おんばしら」の年には、婚礼をはじめその他のお祝いの儀、物入り  
  のかさむことは一切とりやめるといった風習がある。この事が「おんばしら」年に嫁を  
  もらうと七年目ごとに女房を取りかえることになるとかいってこの年の縁談を忌みきら  
  う。このようにして「おんばしら」一本にかける熱意はただならぬものがあった。  
   信濃の国司が大行司となって造営の費用の徴収、国の要所には関所を設けて通  
  行税を取り、造営資材の他国への流出を禁じ、職人の出稼ぎも差止め労力の流出  
  を防止し、総力を寅申の式年造営にぶちこんだ名乗りは今でも色々の形でむらにも  
  残っている。  
     
   「おんばしら」にはどんな遠くへ縁付いている者でも、孫から親類縁者までともなって  
  郷里に集ってきた。何をさしおいてもやってくる。七年に一度の同族の集まりでもある  
  。そしてみんなそれぞれの無事を喜び合い、血縁のつながりを肌に感じて喜びをか  
  みしめるのである。  
   この「おんばしら」のために、腰越の家々は六年間の努力をぶちこんで座敷の改造  
  から障子の張りかえまで行ってこれらの身内を心から暖かく迎える。この気持ちは何  
  物にも代えがたく、いのちの喜びにもつながるものであって「おんばしら」は実に祖先  
  とも血の通う力強い生きがいではなかったかと思う。  
 

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   「おんばしら」の準備  
   この日のために村でも丸一年前から準備でなかなか大変である。前々年の暮に氏  
  子総代は山に登って「おんばしら」のご神木に注連縄を張り、お神酒を上げ、まず「  
  おんばしら」が無事に迎えられるよう祈願する。年があけると氏子がみんな社殿に集  
  って協議する。いわゆる初寄居である。社殿の建造物一切の改修や境内の手入れ  
  はどうするか、道路は痛んでいないか、山出しの道順はどうきめるか、せんげにかか  
  っている丸木橋は大丈夫か、そして各戸に通じるケダシまで少くとも遠来の客がころ  
  んだり怪我などしないように線蜜に心くばりをする。その上大きな問題は、これらによ  
  うする諸経費をどのように捻出するか、祭政一致の形で頭の痛い協議が半年の上も  
  続く。  
   個々の家庭ではわらび・蕗・茸にいたるまで年間を通じて山菜の収集と保存に心が  
  ける。特に農産物の増産には全力をあげなければならない。食料の確保や寝具の  
  整備等では主婦達はそのやりくりに容易ならないものがあった。  
 

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   腰越「おんばしら」祭の変遷  
   江戸時代になって諏訪大社の式年造営と、「御柱曳き」の奉仕が信濃一国から諏  
  訪一郡の奉仕に縮少されてその課役はこの地方ではまぬがれることになったが、逆  
  に分社の行事は自主的になって、その都度大きくなり、氏子の負担はますます重くな  
  るばかりであった。   
   しかも腰越は御天領という関係もあってか諏訪三社の「おんばしら」祭は、この地方  
  切っての大祭となってしまった。それは江戸末期から今日まで続いている「おんばし   
  ら」祭の変遷をみるとよくわかる。  
   この代表的な立役者は中村梅児であった。元来「おんばしら」は腰越よりも武石郷  
  の方が有名であった。  
   武石郷の「おんばしら祭」には早くから近郷近在から助練りや村芝居の代表が沢山  
  送りこまれてその技を競いあい盛大を極めていたらしい。この武石の「おんばしら祭  
  」の評判が江戸にまで広まった文久年間(1861〜1863)には市川白猿が坂東音  
  三郎・中村梅児・三津右ヱ門といった天下の名優を引き連れて巡業にやってきた。  
  この大一座は武石に適当な会場がなくて腰越の全芳院で興行した。市川白猿は江  
  戸中村座の筆頭俳優で後の市川団十郎、いわば日本一といわれた。  
   この興行が縁となって女形のピカ一であった中村梅児は腰越の村人に強引にひき  
  とめられて永住することになった。そしてこの地方の芝居の指導にあたった。文久・  
  元治・慶応と梅児の名声が高く、東信一帯に広まり、梅児のもとに出入りする弟子は  
  300人を越したという。またその興行も松本から佐渡にまで及んでいる。  
   その梅児が自分の弟子たちを動員して腰越の「おんばしら祭」に参加させた。つま  
  り舞台芸術を大道に展開することになって、逆に武石郷の「おんばしら祭」を圧倒して  
  しまった。現代流にいえば腰越の「おんばしら祭」の企画・構成・演出は全部彼の手  
  によってアレンジされ、その上ぼんぼり等を数多く作って、そこに自ら俳画に達筆を  
  ふるい、大衆動員にまで腕をふるって近郷近在の度肝をぬくような「おんばしら祭」に  
  盛り上げた。  
   腰越の「おんばしら」練りで呼びものの大名行列の中で ゛奴練り゛と ゛姫なぎなた  
  振り゛をからませた演技などは梅児のすぐれた創案ということができる。これらはどこ  
  までもショーで神事ではない。例えば ゛奴練り゛ にしてもその衣装は、金銀朱の緞  
  子(どんす)に綿込みの太帯太紐であった。元来下郎というものは下司、お伝馬だか  
  ら素足にわらじ、細紐で衣装は虱くぐりといわれる最下等のはっぴである。従って江  
  戸時代から今日にかけての「おんばしら」に使用した衣装は主に芝居綺羅が多く、お  
  そらく梅児一座のものであったと思われる。そのことは腰越「おんばしら祭」の出しも  
のが梅児の一党に支えられていたことを裏書きしているとみてよいと思われる。
 この「おんばしら」練りのために氏子は今でも最低丸3ヶ月の練習を必要としている
。それが明治10年(1877)の記録によると腰越は百十戸、三百余人の人口しかな
かったが、諏訪三社を合同することもなく、お互いに「おんばしら」を競いあってきてい
ることは、現代人にはちょっと理解しがたいところである。
 中村梅児は明治十八年(1887)に亡くなっているが、その墓石は腰越橋北側の川
向う、旧道の上に立っている。墓とは書いてあるが岩の上だから骨が埋まっているわ
けではない。城山の岩壁を背景に大淵(丸子八景)の清流を眼下にし、遠くは浅間・
蓼科の眺望が利く腰越では風景絶佳の場所である。これは墓というより頌徳碑を意
味したものと考えられる。頌徳碑ではもう一つ、丸子映劇の庭に大きなもいのが建立
されている。
 腰越諏訪三社の「おんばしら」の行事は今でも続いているが、中村梅児の構成によ
る奉納練りは昭和十二年(1937)の日支事変の影響で一時中断され、その後は町
組の一本木諏訪社だけに継承されている。

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中村梅児の詳しい事は下記URLをみてください。
   http://www.ued.janis.or.jp/~up.river/nakamuraumeji.htm
 おんばしら祭の実際
 「おんばしら」の山だしは、昔はほとんど前年の唐松茸の出ている頃だったが最近
は本番年の早春に行うようになった。村の氏子がはっぴ姿で総出動で奉仕する。
 午前八時頃には氏子総代と神主を先頭に約四千メートル位山を登り、ご神木の前
で伐採用具を清め、伐採の安全を祈る。氏子一同のお祓いをしてから一同、ごまめ
とするめでお神酒をいただき、氏子代表が斧を入れ伐採作業にかかる。直径一b
余、高さ10.5メートル余のご神木が切り倒されると、根元の皮はぎをする。一切が
斧だけで鋸はつかわれない。根元に穴をあけ、藤蔓で鐶をかける。これにわらの太
なわをゆわえ何百人もの氏子が引き手となって、木やりにのせ、高らかなかけ声と
共に山の中を突走る。喚声がたえまなくこだまする。動きだすとご神木は道も壁も区
別なく、役付の制止もきかず、ただ大蛇が山をのしくだるが如しで豪壮そのものであ
る。
 このようにしてご神木の山出しが無事にすむと、いわゆる「御柱」は村の入り口に
安置され注連が張りめぐされお神酒をあげる。氏子はその後「おんばしら祭」がいよ
いよ口火を切られたことを意識し、盛大な祝宴に入る。
 「おんばしら祭」の本日は三社とも四月中に行われ、村人の交流が多いので祭日
がかちあわないように配慮される。昔は村中で交互に応援にくりだしたものである。
そうしないと手不足で御柱がなかなか動かないからである。
 明治十年頃は百十戸だった腰越も現在は四百二 三十戸になり、人口も増えてき
  ている。一本木諏訪神社の「おんばしら祭」のお練りは、町組だけでなく、旧丸子町  
  の中心部まで繰り出して伝統の祭典を披露するようになった。  
    ★(平成15年8月現在の腰越件数は約650戸である)  
   行列は午前十時頃から出発する。練りは神事からかなりショー化したとはいえ、江  
  戸時代の行列そのままの再現である。昭和49年の「おんばしら祭」の行列順序と人  
  員は次の遠りである。  
   露払い(2) 天狗(1) 榊(1) 神器(9)(12) 役付(10) 賛(15) 衛(3)   
   長持(2) おかご(4) 警護士(4) 鎧武者(1) 裃(14) 大斧(1) 大鋸(1)  
   御幣奉持(1) なぎなた役(4) 拍子木(1) 師範(2) 助手(2) 姫なぎなた  
   (25) 大なぎなた(1) 奴役(2) 先箱(4) 槍(10) 立傘(1) 大鳥毛(2)  
   はやし方役(2) 三味線(5) 太鼓(2) 笛(4) つつみ(1) 師範(6) 屋台役  
   (5) 引き手(55) 御柱警護士(4) 役(3) てこ(8) 木やり(6) おかめひょっ  
   とこ(2) 御柱引き手(150) その他交通整理警備に動員されたもの(50)  
   合計(432)  
   この行列のために60人の裏方が着付けのために午前5時から30人の婦人が裏方  
  として動員されている。また食事の手配のために60人の裏方が奔走し、来客接待に  
  は30人があてられ、かげの仕事も大変なものである。  
   こうして町の要所要所で大名行列は奴練りと姫なぎなたの振りの演技がきらびや  
  かに披露され、午後は尚武橋から神主を先頭に威勢のいいかけ声と共に、御柱曳  
  きは最高潮に達する。御柱は練りにねって午後3時、一本木諏訪社に到着、幾千の  
  観衆がかたずをのんで見守る中で御柱の建立がはじまる。それが無事にすむとどっ  
  と拍手が湧く。一方社殿ではただちに式年造営「おんばしら」大祭の儀式がはじまる  
  。神主のお祓いと主導で玉串の献上が終わると境内では奴練りと姫ななぎなた振り  
  が古式豊かに奉納される。こうして「おんばしら」祭は終了となる。あとはお神酒が制  
  限なく氏子や観衆に振舞われるのである。                戻る  
                              (筆 川上四郎)

 

 
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