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自立演劇の先覚者 |
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中村梅児の研究 川上四郎
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自立演劇 |
商売演劇に対しいう。ここでは農村演劇 |
丸子町駅 |
小県郡丸子町にある上田丸子電鉄の丸子町駅 |
腰越 |
「こしごえ」と読む、丸子町より徒歩15分 管理人の住んでいるとこ 地名 |
丸子八景 |
丸子町の中で特に景色の良いとこを八ヶ所選び 丸子町が丸子八景と名づけた |
大淵 |
「おおぶち」と読む、地元の人達が昔から呼んでいた地名その下流には、中淵 小淵がある |
頌徳碑 |
「しょうとくひ」と読む、業績などすぐれていた時にその人をたたえて作る 碑 |
全芳院 |
「ぜんぽういん」と読む、丸子町腰越にあるお寺、天文十四年十月十七日建立 5百四十年前 |
丸子映劇 |
上田丸子電鉄線上丸子駅前 映画劇場(現在廃止) |
土着 |
その土地に住み着いている事 |
河川敷 |
河川の敷地 |
清水尻 |
腰越地区の小字名 (今は腰越公民館裏河川敷) |
卑下 |
みずからをいやしめ へりくだること |
勘当 |
義絶 |
畏敬 |
心から服し うやまうこと |
御柱祭 |
七年に一度行われる祭り |
角力 |
すもう |
助練り |
芝居のとき 手伝うために各村から出てくる人をさす |
双璧 |
どちらがすぐれているか決め兼ねる 二つのすぐれたもの |
丸子町壬甲戸籍 |
明治五年の戸籍 |
故実 |
昔の儀式 作法 ふくそうなどのさだめ ならわし |
心酔 |
心から慕って感心すること、夢中になってそれにふけること |
お山 |
芝居において 女役をすること |
内村 |
「うちむら」と読む 地名丸子町の部落名 |
俳優鑑札 |
俳優のもつ鑑札 今でいう免許 戦前まであったようだ |
田楽どうろう |
木で四角に組み紙をはったもの |
柳樽 |
ここでは川柳をさす |
興至れば |
一気可成の達筆 興味がわけば一気に達筆でかく。 |
煌々暁斉 |
名前 |
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梅児の碑 |
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丸子町駅より武石方面行きのバスに乗り、腰越橋でおりる。腰越橋からまっすぐ川向こうの旧道を見 |
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ると、その道ばたの岩の上に「中村梅児墓」という石碑がたっている。 |
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墓とは書いてあるが実際は岩の上だから骨がうまっている墓地ではない。 |
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ここは、城山の岩壁を背景に、丸子八景の一つ大淵の景勝を眼下にし、遠く浅間連峰と蓼科山の見晴 |
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しがきく、という、風景がきわめてよいところである。 |
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このような、腰越で、いわゆる村一番のよい場所をえらんで墓碑を建てたということはこれは「墓」であ |
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っても「頌徳碑」を意味したものだろう。 |
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事実、中村梅児のほんとうの墓は、全芳院にある。 |
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もう一つ丸子映劇の庭に「中村梅児の碑」という、でっかいものがある。丸子映劇は、昔は依田窪随一 |
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の演劇の殿堂、丸子劇場だ。この劇場の竣工を祝って、演劇界の大先輩、梅児の遺徳をしのんで建立し |
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た立派な頌徳碑である。 |
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これだけを見ても、中村梅児という人物が何かに、大きな貢献をしたであろうことが、予想される。それを |
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、これから序々にのべていく。
戻る |
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河原者 |
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中村梅児というのは芸名である。屋号(役者の家の名)は成駒屋。 |
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芝居を演ずる時、「イ菱の紋」を用い、これは紋の種類」だそうで、イ菱をかたどった紋であるゆえ「イ菱 |
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の紋」といい、また表梅をかたどれば「表梅の紋」といわれるらしい。しかしそれ以上のことは、辞書なども |
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ひいてみたが、皆目、見当もつかない。あるいは「イ菱の紋」「表梅の紋」を、専門家がきけば、その役者 |
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の立場、いわゆる地位といったものがどのへんか、わかるのかも知れない。 |
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だが、梅児自身は、地位も、叉、利にもとらわれず、生涯を芸道に精進し、後輩の指導にあてり、この地 |
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に没したという。その生き方は、ただ単なる旅役者などの金もうけ主義とちがって、立派な芸術家であった |
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といわれる。 |
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それだけに、その時代の風潮とはいえ、「河原者」と軽蔑される事に深い悩みをもっていたようである。 |
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今日でも、役者のことを河原乞食という人がある。江戸時代には、ことさらに「河原者」といって旅役者を |
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、軽蔑したようだ。 |
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そのくせ、今日の歌手や映画俳優より以上にこの河原者は叉庶民大衆の人気の的でもあったから妙な |
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ものである。だから名優はいずれの地でも歓迎されてもてはやされた。 |
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そのことは今の時代とちがって大衆娯楽のよくよく少ない時代だから、芝居というものが庶民生活の中に |
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いかに根深くとけこんでいたかがよくうかがえる。「河原者」いろいろの解釈があるようだ。 |
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川の流れのように、旅を流れて生活するものともいい、河原に小屋を張り、ゼニをもらうから「河原乞食」 |
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ともいった。しかし「乞食」の解釈は、今日でいう「コジキ」とは、やや意味がちがうようである。「コジキ」に |
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対する考えが時代によって少しづつかわってきていると考えるからである。今日的な字句の解釈より、少し |
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はなれてとる必要があろう。 |
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封建時代には土着者と、流れ者の差はたしかに強かったようだ。その流れ者の中には芸や学を売る者 |
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と、労働を売る者などが大別される。そして流れ者が落ち着いた場合には「ワラジをぬいだ。」といわれた |
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。今日でも「ワラジをぬぐ。」なんてことをよくいうが、この頃のなごりらしい。 |
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芝居小屋をおったてる時は、昔は河原敷を一番利用したらしい。昔だからといってそんなに空地があっ |
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たわけではない。樹木のない平地というものはみんな耕作地である。いきおい、河川敷の平地が利用さ |
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れて芝居小屋が建てられた。河原は、田や畑のように所有権がはっきりしていないから、文句をつけられ |
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たり、面倒なこともおこらなかった。そういうところから、叉川原乞食の因縁もあった。 |
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腰越でも清水尻の川原を使ったらしい。芝居小屋を張るためには村人はどこでも、丸太棒とか、ムシロ |
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の供出、そして労力の協力もおしまなかった。今日の素人演芸会のムードとよく似たものがある。 |
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こうして、川原乞食は、庶民階級に親しまれる「乞食」だったのである。 |
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ただし、当時の社会組織は、土農工商と、階級制度は厳然としていた。いわゆる遊芸人は大衆の人気 |
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の的であっても、叉大衆の中の芸術家ではあっても、この階級の中に割込めないものがあった。そういう |
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意識が「川原者」という、役者の意識を自ら卑下して、自分で自分の、気持ちを割り切れぬものにしていた |
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。だから彼等は、自分の出身地とか、縁故者を、どんなに人から聞かれても、つとめて話たがらなかった。 |
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中村梅児も、旧氏、幼名をいわず、ただ四国の産というのみだったが、日本演劇史の中では、阿波の国 |
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、叉は讃岐の高松の人という説などがあるそうである。 |
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自ら、土族というも詳しいことは分からないまま、腰越に住み着いて「滝沢新七」と名乗った。 |
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封建社会の世の悲劇は、今までに何度と無く、お目にかかったが、この中村梅児も、封建の世にないた一 |
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人であろう。現在は役者も一職業として、りっぱにみとめられている。今の世を梅児がみたなら、天国に近い |
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感を受けるであろう。それだけに、梅児を今の世につれもどしたい気さえする。 |
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しかし、梅児とて、今日の世がいずれおとずれることを信じつつ、後進の指導にあたったであろう。それゆえ |
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に、新たに、梅児の偉大さを感じないわけにはいかないのである。 戻る |
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芸道開眼 |
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中村梅児の父は大坂の蔵屋敷につとめていた。 |
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たまたま大歌舞伎の中村芝翫が大坂で興行し梅児は、父に従ってその歌舞伎をみた。ところが芝翫の演 |
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伎から生ずる人間感情の豊かさとそのすぐれた舞台芸術にすっかり魅せられて〃よし、自分も役者になろう |
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。〃と決意をしてしまった。 |
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おどろいたのは父である。 |
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かりそめにも武士のせがれが、自ら川原乞食になり下ろうなどとはもっての外と、その不心得をさとそうと |
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したが、梅児は一向にききいれない。 |
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それどころか、〃お父ちゃんは、武士々というけれども、武士だって食べるための一つの商売なんでしょう。 |
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人殺し。殺し屋。そんなのちっともエラクないや。それよりも、役者の方が、人を楽しませたり、自分も心のゆ |
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とりができて、ずっと楽しいし、第一、精魂を打ち込んで出来る仕事の方が、生きがいがあっていいね。〃 |
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てなわけで、梅児の人生哲学に父は〃ああ、親ににず、おろかな子よ、〃となげくばかり。 |
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そして、父は世間ていをつくるために涙をのんで一先ず勘動ということにしてしまった。しかし梅児の父は、 |
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ただ物のわからぬ、そこらへんにころがっているガンコ親父とは違って、内心は「人間の幸福なんてものは、 |
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カネやメイヨばかりではなさそうだ。自分の好きなことに、無中になって打ち込んでいるときが一番幸せかも |
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知れん。」と悟りも早く〃お前はお前ですきなようにやっていけ。〃というわけで、大きなタイを注文し、梅児 |
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の勘当を祝福した。 |
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そして、もしどうしても芸に生きることが出来なくて、どうにもならなくなったら、迷わず家へ帰ってこい、人間 |
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は、心がヒネクレたりエコジになると、自分だけはそれでもいいかも知れないが、他人に迷惑がかかると気の |
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毒だからな。といいきかせて、家伝の吉光の短刀を与え、それを生涯形見とした。 |
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これを八百長勘当というそうである。江戸時代には、士族、町人の別なく沢山行われたそうである。叉一面 |
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には、この世間ていをつくらうための勘当は人情の美徳とさえされたらしい。今日でも、結婚問題などで、封 |
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建的な家庭では、ちょぼんちょぼんと、この手を用いるという。 |
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まあ、八百長勘当とやらも、分からんことはないが、いくら、美徳とはいえ、好きになれない。しかし、考える |
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に、梅児の場合、父がとった手は、最適であると思う。 |
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このへんにも父の頭のよさをうかがうことができる。 これですっかり自由の身となった梅児は希望に胸をふ |
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くらませて、芝翫の門をたたいた。 |
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こうして、梅児は土性っ骨が座っており、その性格は、人のよい父と対象的だった。現代青少年にみならって |
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もらいたい精神である。 |
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だから梅児は名利にとらわれず、芸一道に生きるため、自分の素性もあかさず、いわば片田舎であるこの |
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腰越の土となるまで、そのまわりにいた人たちは、グチ一つきいたことはなかったという。 |
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中村芝翫は、梅児を一目見て、これはただ者ではない、とにらんだ。「お前さんその根性はよくない、ふとこ |
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ろの刃物はすてることだな。」芝翫はずばりといった。梅児はぎょっとした。 |
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事実、梅児のふところには、短刀がかくされていた。それを芝翫に見抜かれたのだ。梅児は、事ならずんば |
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、芝翫をさすか、自分をさすか、二つに一つと思いつめていた。梅児にしては若気の至りともいうべきだった |
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ろう。 |
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それを見抜いた芝翫の眼も鋭かった。芝翫は、梅児をともなって江戸へかえった。 |
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梅児はぐんぐん腕をみがき、その伎を深くして、一方の旗頭となった。 |
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そして成駒屋を号し、イ菱の紋を許された。序列のやかましい歌舞伎の世界だ。彼が、凡人でなかったこと |
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が分かる。 |
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文久年間、市川白猿は、三津右エ門、坂東音三郎といった腕っ利きを供って全芳院に興行した。 |
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中村梅児、叉これに連ってやってきた。 |
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白猿は後の市川団十郎。当時、江戸中村座の筆頭である。今では、日本一の名優である。その白猿一座 |
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がやってきたのだから、依田窪地区を中心として、近郷、近在の芝居フアンは、熱狂的にこれを歓迎した。 |
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美空ひばりや、橋幸夫など足もとへもよりつけないほどの人気だったようだ。 |
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とくに、この地方は武石郷に御柱祭があって七年に一度、大祭が行われていた。 |
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当時の神事に対す、一般民衆の畏敬と行事への協賛は江戸にまで話題が流れる程で、その助練りや、 |
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余興は各郷、各部落がきそってその代表を参加せしめ、さながらリクレーションのコンクールといった観があっ |
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た。こうして、祭典が実にはなやかだった関係上、劇通も叉多く、叉一般民衆の劇眼も高くいわゆるレベルがとて |
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も高かった。 |
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こうした民衆の肥えた目が、ついに中村梅児をとりかくんではなさなかったのである。中村梅児も叉、この地の |
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芝居熱におどろかされ、民衆の要望にこたえて、ついにこの地にこしをすえ、芸の虫となる決意をした。 |
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芸術は民衆と共にあらねばならぬ、という梅児の考え方が、はしなくも、この地で、実現することになったのだ。 |
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全芳院の興行は、その意味で、梅児にとっても、この地方にとっても特筆すべきものとなった。 |
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単に花やかさをうりものとするような現在の芸能界と、梅児の考えはおおきな開きがある。芸術というものの中 |
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に生きるには、やはり梅児の考えは必要であろう。 |
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こうして梅児がこの地に住み着くことになって、腰越の御柱祭は、リクレ−ションの様相が、やがて武石を圧する |
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ほどに、はなやかにもえ上がってきた。 戻る |
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百姓新七 |
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明治初年、腰越村に〃四方山〃という力士がいた。当時角力は、スポーツという面より、娯楽としての性格の |
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方が強かったようだ。だから芝居と角力は大衆娯楽の双壁といえる。 |
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四方山は、名を滝沢七之助。子供がなく、死後はあとつぎがないので一応廃家という事になったが、村の人達 |
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がよりより相談して、明家という力士に子供が多かったので幼女をもらって、その滝沢をつがせることにした。 |
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幼女の名を〃つる〃という。 たまたま中村梅児の面倒を見ていた滝沢登一郎が、梅児を弟分として、つるの |
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後見人ということにして、滝沢家へ入れた。 中村梅児は、滝沢と姓を改め名を新七とした。 |
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生業は百姓になった。 |
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彼の名は芸の道から百姓道にうつってはじめて呼ばれたわけで、新七の名は、新田七代の後胤(子孫)に |
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でずという因によるものらしい。 |
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彼の素性の一面をあらわしたものである。 |
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このようにして、滝沢登一郎は梅児の郷里四国より、彼の籍を送ってもらうことになった。 |
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家郷のものは、その改名に困ってくるところありとし、梅児未だ藩恩を忘れじと、直に送籍し一功を滝沢登一郎 |
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に委託した。 |
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丸子町壬甲戸籍には送籍関係がないから、おそらくこれは、明治五年以前である。 |
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こうして、いよいよ腰越住民となった梅児は、もっぱらこの地方の演劇の指導にあたった。 |
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後進を養成し、芝居の弟子は三百人をこした。松壽、菊壽、九蔵、梅笑、和児、梅春、鶴七、捨十郎。幸四郎 |
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梅掛、梅香、宋左エ門、梅琴、信吉、藤花等の名優を輩出し、その名は江戸にまで広がり、地方芸界では日本 |
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一の黄金時代をきずいたのである。 |
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中でも、東内村和子の人、鶴七は、二代目梅児として、その名は全国にひびいた。 |
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こうして依田窪は、民衆の劇眼がいやが上にも高まって、日本演劇史の一頁に特異な存在となった。 |
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正に、中村梅児は自立演劇の第一人者というわけである。かくして、依田窪へは、日本で一流といわれる役者 |
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でなければ巡業に足を踏み入れることが出来なくなった。 |
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梅児は弟子をいつくしむこと人一倍深く、雪のために興行のできない晩秋から春にかけては、実に多くの弟子 |
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たちが、常時、彼の家に寄食していた。 |
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梅児はそれらの面倒を心よくやっていた。叉二配、三配の客もたえまがなかった。そしてひとたび巡業となると |
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梅児は、志望者の人選で頭をなやまされた。 |
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巡業は、丸子を中心とした弟子たちの群星をひきいて、郡内はもちろん、松本、上野、越後から遠く佐渡にまで |
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上演し、いずれの地でも、そのすぐれた演技に絶賛を浴びた。 |
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梅児の演技指導は、役者をつくるより、まず人間を作る、ということに徹していた。人間として、自分をしっかり |
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たたきあげることによって、芸は自ら備ってくるのである。いかに芸が達者のようにみえても、役者が人間として |
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、出来ていなければ、結局それは、フワフワしたもので、いわば、つけやき刃にすぎず、とうてい芸を通じて民衆 |
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の生活感情にとけこむことなど、思いもよらぬことだった。もちろん民衆の感情など呼び起こすべくもない。 |
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人間の形成とか改造ということはもっと面倒である。梅児は事をあせらず、じっくりと腰をすえて、しかも体あたり |
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で弟子たちの指導にあたたった。 |
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はじめは、きわめておおざっぱで、人間が練れ、伎が進むに従って、それなりきに微に入り、細に亘り、その精 |
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神を伝え、その奥をきわめれば、局地に至り、うんちく(薀蓄・・・・・十分研究してたくわえた深い知識)をかたむけ |
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て、その底が知れなかった。 |
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乃ち、人を見て法をとき、人を味わって技をつけ、いわゆる個人教授の真髄に徹したようである。 |
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弟子の、中村武内(後の鶴七、乃ち二代目梅児)が、曽って芝居の役者に「古戦場、鐘掛松」の堀川御所の |
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源蔵が破傷風でなやみ、主人の義経の身替りに立ったときの押さえに疑いがあって、明日、それを教えねばなら |
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ぬが、その根拠がわからぬ、といって教えを乞う。 |
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梅児は、「それは、左筋骨の三枚目が傷口だよ」と答えた。 |
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叉、佐久の八重原の梅笑は、夜半にはせ参じ〃安達ヶ原〃の流れ矢がとんできて「我が父のわたがの、はず |
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れより、」とあるが、そのわたがみがわからぬという。 |
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梅児は即座に「それは肩の腕のつけ根のところだ。」と教えた。 |
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このようにして師たるもの仲々難かしく、叉弟子となるも仲々容易でない。 |
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芸の道は、つきるところがないからである。かくのごとく梅児は、浄るり文学にも秀で故実にかんして教えること |
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数かぎりなき有様で逸話も多かった。 |
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梅児は腰越に腰をおちつけてしまったが、中央に居れば当然、中村芝翫のあとつぎとなる立場にあった。 |
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田舎の環境は、梅児の人間性に厚味を加えたが、社会的には埋れ木だった。 |
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田舎では梅児も、自分の全力を発揮する術もなくそのチャンスもなかった。 |
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それ故に、彼の真価を知る人も叉少なくなかったわけである。 |
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こんなことがあった。 |
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梅児は弟子達を引き連れて、松本へ巡業した時のことである。 |
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たまたま、伊那の中村梅勇、坂東調尾の一座と顔合わせになった。共に共同して大興行となった。 |
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初日は、梅児「信夫」を演じ、梅勇は「宮城野」で幕をあけた。ところが梅児の妙技に梅勇とても追いつけず、梅 |
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勇はたまりかねてとうとう夜中にどこかへ、逃げ出してしまった。二日目は、坂東調尾と「鏡山」を出す事になった。 |
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戻る |
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女形 |
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松本の興行で二日目は「鏡山」を出した。 梅児は〃お初〃となって調尾を圧倒し、調尾演ずる術なく、これも |
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叉、その夜の内に夜逃げをしてしまった。 |
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かくして松本の合同芝居は大一座がくずれてしまったが余りにもその伎のはなはだしさに観衆はただおどろく |
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ばかりだった。弟子の多作は梅児に従っていたが、それほどにも師の技がすぐれているとはユメにもおもっていな |
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かったので、すっかり心酔してしまった。 |
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今まで、師弟の間柄で、つい心安きにあったが、これはたいしたものだ、と心から敬服した。 |
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芝居では、いつも梅児は、弟子たちと間を合わせ、弟子たちの演技を引き立てていたことがはじめてわかった |
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のである。 |
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なぁーに、じきに師位になれる。と甘くうぬぼれていたことが、恥ずかしくてならぬと彼は述壊している。 |
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梅児のもっとも長ずるところは「女形」だった。いわゆる〃お山〃である。その上、三曲のしらべにすぐれていた |
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ので「お山」としては、鬼に金棒だった。 |
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例えば、鏡山のお初、白石噺の信夫、目黒の権八、布引の小万等は、もっとも得意だった。 |
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梅児は背も余り高くなく、やせ形で、いわゆるスマートなのでお山には適したいた。 |
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子供は一人もなく、塩尻村の佐藤清左エ門の二男をもらって養子とした。名を忠造という。 |
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忠造は日露戦争に出征して、松樹山で戦死してしまったので、そのあとは絶えてしまった。 |
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梅児は俳階が巧みで、俳名を梅子といい、句作もなかなか多かった。 |
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◎ 借りられて方耳涼し緑のさき |
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◎ 十五夜と聞いて見直す今宵かな |
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叉彼は、俳句より入った俳画が得意で、句に接すると、直に俳画をものにする点で有名だった。 |
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特に役者絵をよくし、最鳥羽絵に自由奔放な妙技がみられた。 |
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その画作は必ずしも古人の粉本(絵の手本)によらず、いつも新しさがあった。 |
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妻サノは、叉普通人に透れて仲々かしこく近隣にその怜悧(かしこい)さが伝わっていた。またサノがこの地方に |
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親しまれていたのは婚礼の仲人を百余回もつとめたからである。叉、産婆では四百余人の子供を取り上げたという |
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から、当時としては、たいしたおばさんということになる。 |
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中村梅児は、明治壱拾八年に腰越清水尻地籍で引退興行をはなばなしく挙行した。 |
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二代目梅児を後継に立て、自分は「宇良梅」と号し、芸界の後援として引退した。 |
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今でいえば、芸能界の顧問役になったわけである。 |
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引退興行は、明治十八年九月二十日、当区清水尻地籍において、間口十間、奥行十二間の芝居小屋を仮設 |
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し、晴天二日間の、東西歌舞伎で開幕した。願書は、当時、上丸子村外三ヶ村戸長金山清兵衛連署である。 |
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戻る |
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引退興行 |
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警察へ出した中村梅児引退興行願書の全文は次のようなものである。 |
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「右者今舟為若計前記名の者相雇拙者者所有地小県郡腰越村五百拾一番地字清水尻及び仝村滝沢慶蔵 |
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に二百数十燈、この例祭には、梅児は絵筆を持ち切りだった。終日部屋に立てこもって縦横、筆を振ったが、相 |
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似た絵はなかったという。 |
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もちろん劇画だから柳樽を採り、自己の創作にあたり、地作ありで、興至れば、一気可成の達筆で、たとえば |
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横がけの大とうろうに天狗が鼻で角力する画などを描いた。その一人にはコブがあり、題して、 |
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こぶが原、くらまの天狗 よく見よや 富士より高き 俳天の鼻 |
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と、選に入った村人の句を入れたりした。俳諧では宗匠(いわゆる師匠)となり、 |
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朝夕に残る寒さや梅の花 |
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の句もあり、東京から、中村芝翫も句をよせて、 |
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いくとせも変わらず梅の花のかおりかな |
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とある。 この宗匠の披露には煌々暁斉の題画に、芝翫、梅児の句をすり、後見は、東京成駒連、信陽翁連と |
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して知巳にくばりたるもの今なお各所に残っている。 |
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この時期の、中村芝翫は何代目かあきらかではないが、天保七年に二代芝翫が、その弟子鶴助に三代芝翫 |
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をゆずり、これが四代歌エ門となる。 |
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この年、梅児は五才というから、おそらく梅児の師は、この三代目だろう。弘化四年、梅児十六才の時、芝翫三代 |
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は三十八才で死んでいる。それから十四年間、芝翫のあとをつぐものはなく、句をよせたのはその後の四代目で |
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あろう。 この関係からいっても、梅児は白猿一座と別れて、この腰越に居つかなかったら、当然彼は芝翫四代を |
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継いでいたと思う。 |
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しかし、結局、梅児家は断絶し、弟子も叉四散してしまった。 |
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今日に残るものは、丸子町腰越大淵の向こう側の上にある「中村梅児墓」一本。裏面に、芝翫・梅児の句を |
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きざみ追善の句十首をほってあるが、今は風化して読み取ることも出来ない。 |
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二代目、梅児施主、中村梅枝往時は、題字は金泥だったという。県道がこちらの新道になってからは、おとずれ |
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る人もなく、村の人たちからも全く忘れられている。 |
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資料も、今となっては、ほとんどといってよいくらいない。 |
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残っている資料を、ひっぱり出したが、梅児の人柄はある程度わかると思う。叉現在今なおこの地方に続いて |
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いる御柱祭の歴史も側面から見ることが出来ると思う。 |
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完 戻る |
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以上この地方に伝わる御柱祭のよびもの「お練り」の先覚者中村梅児の研究をおやじののこした原稿より |
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そのまま収録しました。7年に一度のお祭りには必ず踊り子の皆さんと碑まで挨拶にいきます。梅児の残した |
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舞台から大道芸にうつしたお練りは今でも盛大なお祭りをしてます 。この次の御柱祭は平成16年4月です |
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また張り切ってやる事とおもいます。。。。。管理人 |
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今年八月三日丸子ドドンコに参加 本日の4分の一に縮小して参加
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