著書  川上四郎
                                  
                                       
 戦前の信濃毎日新聞の建設欄 その他の投稿を編集約数百点のものを平成九年に管理人が
自費出版した物です                                             
  この作品は.川端康成等監修「農村青年報告」に収録された。「鯉は曲者」「鮎」「仙造日誌」三点の一つです
中でも.「鮎」は抜群の評価です。近々にこのページに収録します。なお[東町 唄]は親父のペンネームです。
 
                           
 9月19日三点の小説の収録が終わりました 大変長い文章ですのでゆっくりとお読みください。
なお親父のこの文章はすべて実録を素材にして書いたものです 上田 小県地方の戦前の物価 生活 理容組合
など 貴重な資料が残されております,著書「川上四郎」は 県内の図書館 国立国会図書館などにも
保管されておりますので 参考にされれば 幸いかと思います。
   鯉は曲者  no1 (上)   no2 (中)   no3 (下)            
      鮎       (1)        (2)        (3)
      仙造日誌   (1)
      鯉は曲者(上)       東町 唄
                信濃毎日新聞紙上    昭和13年5月6日
                                           
 その頃.ぼくは金儲けを考えて居た時でもあったが.正直に言えば.鯉屋を.冷やかし損なった!と言うのが
。養鯉事業に手を染めた.動機なのだ。 と言うのは.五月下旬のある日のことだ佐久の本場物だと言って五
十がらみの.どちらかと言えばひげの奥に顔がある様な鯉屋が来て.出目金みたいな鯉っ仔を.盛んに自慢
して居た。 ぼくは.本場物であろうが.無かろうが鯉は鯉で.まさかいくら大きくなっても鯨ほどにはなるまいし
.味だって.まぐろの刺身と言う具合にはゆくまい.と真面目腐って.きわめて悠々と言ってのけると.鯉屋は.
とてもむきになって.でえていこえとは.どんなもんか知らねえな.と盛んにからんで来たのである。そして.持っ
て来た所の鯉っ仔の.つまり佐久鯉の特殊性と言ったものをくどくど とひとくさり聞かされて.誰も買うとは言は
ぬのに百尾十六践よりはびた一文も欠けては.売られねえ代物だと.獅子っ鼻.もの凄く.鯉屋は一人で見栄
を切っていた。  要約すると.その鯉っ仔は.成長率が非常によく.育つ.落ちが絶対にないと言う.つまり.
達者だと言うのだ.其処で.僕は.”成る程.大したものだ”とかつぎ桶の中の真っ黒に泳いでいる中に白い腹
を見せて.くたばりかかった奴を棒の先で一寸こずきながら「八銭位なら.みんな買ってもいいな」と冗談半分に
.独り言のように言うと.「売った」と言って鯉屋は手を叩いてしまった。    ★    まさか.あの位力んでい
たのだから.半値にはしまいと思ったのが.重大なる失策で.鯉屋はもう「ひいやふうや」と鯉っ仔の勘定をやり
だしたので.ぼくは内心.こいつは変なことになってしまった.と思ったが.もう後のまつり引っ込みもつかないの
で.ままよと断念し.まさか一萬とはいまいと思っていた.所が都合一萬六千匹もいてその金が十二円八十
銭也で.皮算用が天気予報みたいにひどく狂っちまって.すっかり腐ってしまった。  とにかく.ぼくは百姓では
ないので水田もなし.この鯉っ仔を.如何に処分すべきやで.一時途方にくれてしまったが.まさか.つくだにに
するわけにもゆかないので.これも.専ら金儲けを考えている小林と言う友人のところへ相談を持ちかけた。
          
 ところが.それは面白い.例えばその鯉が一匹二百匁位まで飼い上げて見たまえ。一萬六千匹で.えっと何
百貫かな.とすぐそろばんを持ち出して来て.相場は百匁十八銭だ.こいつは儲かるぞ.と.あっさり一本口
乗ってくれたので.ぼくは.ほっと.愛悩が半分ほど解消した。
                       ★
 幸い.裏の田圃の片隅に.コンクリの採氷プールがあって.寒中以外は.ひぼしになって空いていたので.持
主である村の或る大地主に.理由を打開けて.無償で貸しとくれと図太く申し込んだ所が実に気持ちよく承諾し
てくれた。併も.養蚕乃至.米作のみの.この漫の単一農業の欠陥を指摘し.小作人達に多角形経営を説いて
も彼等は多角どころか.資金がなくちゃ.三角にもなりゃせん.なんてほざき.年柄年中.年貢をまけてもらうこ
とばかり考えて居って實に.けしからんが.君達青年が率先して.そうゆう事業に手を出してくれることは.農村
更正の上からも.全く有意義のことであるから.大いにがんばって.土百姓に一つの範を示してくれと.激励ま
でされてぼくたちは.味の良い梅の焼酎漬をお茶うけに舌ずつみを打ちながら.大いに感激して.引き下がった
のである。
 で.採氷プールの.年貢は免じられたが.もし泥が入ったら採氷期までには片付けておいてくれと言うのが.
無年貢に対する地主への代償で.ぼく達は.全く素晴らしい勢いで.力強く養鯉事業への第一歩をスタートし
たのである。

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      鯉は曲者(中)               東町   唄
                               信濃毎日新聞紙上       昭和13年5月7日
 五月と言えば.日中は初夏の候だが.夜間は急に温度が下がり.稚魚の成育には.この水温が非常に密接
な関係を持つ。そこで.ぼくたちは.水温を高めるために.まず三寸位の深さに.水入れをし.一萬六千匹の鯉
っ仔を放って.ひとまず引き上げた。
 次の日.早朝起き出て.小林とプールへ視察に出かけると.驚いた事に.ぼく達の足音のためか.川鷺が十
五六羽.すがすがしい羽ばたを立て々景気よく舞い上がったのである。
同時にぼく達は.思はず悲鳴を上げずにはいられなかった。かわき切ったコンクリのプールは可成りの水を
吸い上げたものらしい.又所々に割れきずもあって.プールの水は野球でも出来そうにすっかり干上っていた
のである。 そして幾の.くぼみの水たまりに.かれこれ二三千匹の出目金が.ブクブクやっていたのみで.あ
とは枕を並べて成仏していた。 暫し.呆然とし.ぼくたちは.水温を保持するために取り入れ口を止めておい
たことを.悔いても悔いても.あまりあるものがあった。されど人の世は有罠転変.というわけでもないが七転
八起のたとえもあり.又一萬匹を購入して放魚した。
                 ★
 それからと言うものは.小林と交後に毎日三回から四回.見廻りに出かけ.村の蚕を飼っている家からは.繭
を集めては乾燥.砕粉にして給餌をし.比較的順調に月日はすぎたけれども.順調ならざるは鯉の発育状態
であった。いつまで立っても大きくなればこそ.一寸二三分位で発育は停止し.いさ々か落胆気味と同時に炎熱
やくが如き真夏ともなれば.ついに見廻りもさっぱり勝ちとなり.暑中休暇の頃には.子供がすくっていたと言う
話も広がってきた。  
 そして.時には十日くらい.プールにご無沙汰もする様になって.八月の下旬頃である。プールへ行く途中に
.村の酒屋の池があって.そこには目の下.一尺程もあろうかと思はれる.大きな鯉が三四十匹もいて.それ
を見る度に自分達の鯉も.一萬から.あのくらいに大きくなったら.さぞかし見事であろうなど々思っいる内に
.ぼく達の養鯉がうまくゆかないので.何とか成績の上がる方法はないかと.可成り精神的な援助をしていてく
れた山田と言う友人がある日酒屋の池から五六尾.無断ですくい上げて.ぼく達のプールへ放してくれたと言
うのだ。  
 つまり.大きな奴が泳いで入れば.プール遊びに.何となり張り合いがあろうし.又毎日.見廻りにいきさへす
れば.手抜かりも少なかろうと言う心付くしからで.酒屋へこのことが知れて.叱言を言われた所で.盗んで食
っちまったわけではなく.あとで返せばいいのだから.と言うつもりだったらしい。
が熱し.うれしくなったのはぼく達である。 ぼく達のプールに入った以上.ぼく達の所有物だと言うので.それ
からは.又根気よくプール通いをはじめたのである。 所が.今餌を多量に与えても.とにかく食い残しが多く
底に沈没して腐敗し.時には排水のうまくいかない時には.メタンガスが発生している始末である.それが.
大きな奴を放養してからは.食うわ々.稚魚を押しのけてまで.みんな平らげてしまう始末で.酒屋の居候が
増々太っていく反面に.本家の連中は.みんな栄養不良の状態で.さて.これも困ったものだと思案に暮れた
が.かと言って.このうまそうな大きな奴を返すのも.惜しいし.ずるずるべったりで.とうとう秋の彼岸の中日
となってしまった。
この日は.村では彼岸川干しといって.用水を一切止めて.川ざらいをする日だ。

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       鯉は曲者(下)           東町   唄
                              信濃毎日新聞紙上      昭和13年5月9日 
 ぼく達もこの川止めを利用して兎に角.プールの収穫をすることにした。 所が.すでに.この大きな奴のいる
事を探知した悪友達がその法事を目的に七人も押しかけて.時ならぬ安来節風景を演じ.総勢九人.たっぷり
一日がゝりでとりあげた鯉は.一萬二千匹の内千五六百位しかいなかったので.悪友達も.一萬二萬の宣伝
は支那の逆宣伝よりひどいぞ.なんて言いだす始末である。
従って通算二萬六千匹の放鯉の内二萬四千からの鯉は.死んだり逃げたり子供に取られたりでその目方が
五六貫匁幼魚は百匁十五銭が相場であったから金二十円八十銭の鯉仔を春から秋まで放養して金九円ば
かりの収穫を得たわけである。
が.鯉は幼魚で売ってはだめだ二年から三年目の成長が.養鯉としての本領を発揮するものであるという.山
田君の学説を利用してどうせ手をつけた仕事だ.最後まで徹底的にやって見ろ.とゆうわけで.その鯉の冬越
しをさせることにぼく達は腹を決めた。
                   ★
 けれども.相憎と自分達には池がないので色々と思案の揚句.方面委員をやっている.お寺の蓮池をかりる
ことにした.所がこれも非常に快よく返事をしてくれて.併も無年貢でよい.と言う話だ。が併し.鯉は蓮があって
は.そのために日陰となり.年中.水が冷えてとても成績が悪い。そこで.諸君の手で.一つ蓮根を掘ってくれ
ないか.と言う。 
   驚いたのはぼく達である.無年貢はよいが蓮根堀りは野暮でない.そんな手間があったら.池を新しく掘るに
かぎると言うので.小林の裏にある坪一升の畑を借りて.友人を動員し三日がゝりで池を掘って.千五六百匹
の幼鯉を放す事ができた.
そして秋深み冬近ずく頃ともなれば.どうゆうわけか.鼻のかけたのや.背中の痛んだ鯉が日に増し殖えてきて
.なにも知らないぼく達は魚にもかさや淋病があるのかなこいつは草津の湯では直るまいと思っていたら実は
河ねずみの大襲撃が始まったのである。 
 と.気付いた時には.支那では南京城猛攻のひばちが切られ.内地では.三十年来の寒波が襲来し.池の面
は爆弾が落ちてもびくともしない様な厚い氷に全く閉ざされてしまった。
そして.なす術もなく.手の下し様もなく東風ふかば匂いおこせよ梅の花.といった春がまためぐり来て.水仙
も芽ぐみ.氷の影も消え果てた頃.呼べど探せど.池の中にいたのは.尾っぽのない二寸ばかりの奴がたった
一匹.ぽかぽかと暖かい池の端に腰をおろして.ぼく達は.もうとかげもおきだす頃だ.と大きなあくびをしてい
ると.静かな池の面を.いともうらゝかに横ぎった奴がある.それはぽちゃぽちゃと肥え太った河ねずみであっ
た。

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        鮎 (一)         東町 唄
 
                            信濃毎日新聞紙上      昭和14年6月11日 
 
 食いつくで、見とれ。 
興吉は、ばけつへ掌を突っ込んでかきまはした。糖味噌のような、すり餌がべっとりついた。池の面へ振った鰻
の仔みたいなひょろながい鮎の仔は、白い腹をでんぐり返したりして、薄汚い位にまで密集し、ざわめいた。餌に
食いついてるのだそれ見れ。興吉は得意そうに又ばけつへ掌を突っ込んだ。食うにゃ、食うが。吾作は、腹のた
しにはなるめい。と言った。それが興吉は気に食はなかった。為にならぬことがあるものか、何でも食えば、きっ
と大きくなる。興吉はそう思った。そう信じていた。だが吾作も譲らなかった。鮎には鮎の食いものがある。豚と一
しょくたくで、鮎が育つもんかと言った。あがりを見とれ。興吉はうそぶいた。吾作にもあがりが屈託なのである。
だから晩めしのとき女房にあたった。あがりを見とれ、みんなくたばっちまうわい。河にいる奴は水苔で、でかく
なるのだ。そいつをうどん粉や蛹なんかこね廻して、何んちょうとゆうのだ。人間だって食い物、がなけりゃ草の
根でも掘じくって食うずらし、馬ぐさ糞だって食う。鮎だって同じことだ。雨あがりの増水には、ささ虫さへ食ってい
る。食い物がねえから、何でも食い付く。食い付くからと言って、それが鮎の餌なるとゆうわけにはいかね。
 吾作はいつまでも喋り立てた。わしが聞いたってしょうのないこった。それよか早くめしを食っちまえ。女房の
おかねは吾作をせきたてた。そして壷所へおりると、なじる様に、他人の仙気病みなんかいい加減にするさ。と
おかねは後むきになって鍋をごしごし洗いはじめた。実際、田園の七分通りも、畔がしめっても吾作の田は、ま
だ手がついていなかった。仕事が遅れている。それだのに、日 に三度は、興吉の養魚池へ出かけた。行け ば
一時間から、時には二時間位、鮎の世話を焼いた。近所の者も。心配した余計なひまつぶしをせんで人は人、
自分は自分、内の仕事でもしていた方がよからずに。面と向かって意見する者もあったが、その時は、うんう
んと聞きながし、もうすぐ、その足で、池へ出かけることさへあった。 吾作の物好きにも困りもんだ。みんな眉を
ひそめた。おかねにとっては、眉をひそめただけでは済まされなかった。いきほい、何かにつけて當り散らした。
興吉が鮎で儲かったって、内へは一銭でも分前なんかきやせんわ、田圃が忙しい忙しいで十両になるカワヤまで
手控へて何ってこった。わんわんとわめいている所へ、水口が痛んでなあ、えらう鮎を逃がしただなどと興吉
がひょっこり顔を出すとそりゃ本當か、何を又しくじっただと、そそくさと興吉を置いてけぼりにし、吾作は血相代
えて池へ突っ走ったりした。だから、日常も興吉は興吉で、吾作が来ると待っていたかのように迎え、鮎ちゆう
魚はえらい魚だ、排水口の簾を二尺も飛び上がって逃げようとした。それが性格だな。吾作もにやりとし、話も
合って、気も合って、はじめのうちは至極いいのだが、養殖の技術の鮎になるときっと意見が食い違ってゆくの
だった。
 吾作は、鯉も、はやも、色々の魚をごっちゃに放せと言った。魚は魚の性格によって、水底の餌を漁る奴もあ
れば、上面ばかりを漁ってあるくのもいて、魚同志で、ふんだんに池中を掃除する。でねえと、食い余した餌がし
ずんで、瓦斯が湧くわい。瓦斯がわけば魚もみんなくたばるぞ、とおどした。糞っ、それじゃ、他の魚にみんな餌
は食はれちまうわ。わりゃ、俺のやりそくねえするように言う。何の因縁でゆうか!と唇をへの字にし、時には、け
えれ!と、興吉は、激しく怒鳴ったりするのだった。

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          (二)
 鮎の養殖に目をつけたのも、池をこしらえたのも、みんな吾作である。そのために吾作は二千五百円からの
不義理をし、技術的な未熟さと気候の不順で三年続けて失敗した。動きがとれなくなった。食いつなぐだけの田
畑を残して三段歩ばかりの田を払った。それでも八百円からの瘤が出来た。その瘤を引き受けたのが興吉であ
る。興吉は物持ちで自分から村の有力者だと言った。河原を人手間で開墾し、立派な水田に仕上げ、植付けが
終ると同時に洪水で押し流されてしまったり、十六町歩からの山を買って、山火事で半分も焼かれてしまったり
した運の悪い男だが、自分から有力者とうそぶく位の底力があるだけに貧乍揺るぎもしなかった。その興吉が、
瘤の代償に吾作の養魚池をまきあげてしまった。
  池はとられても、吾作は鮎の養殖に、とても絶ち難い未練をを持っていた。失敗の経験から養殖については
すくなくとも興吉よりは確かである。
 はじめ、この仕事に手をつける時、吾作のおそれたのは漁業組合である。自分も漁業組合の役員であるし、
漁業組合で反対をされると手のくだしようがないのだ。資本をかけて、河川へ稚魚を放養することは全く原始的
な方法で、むしろ無謀とさえ言える。幸、その成果が得られれば兎も角だが余りほめられた筋合のものではない
。放養したものは、一匹残らず収魚する方法をつけねば資本の価値がない。其処で吾作は養殖をはじめた。
一匹に銭の稚鮎も成長すれば三匹百匁位になる。仲値でも百匁八十銭前後が相場だ。五月から八月頃まで
僅か三四ヶ月の短期間で十倍から十数倍の利を得ることになる。水産事業が池の養殖で合理化されると漁業
組合員の死活問題である。だが鮎は瀬にすむものーーとゆう概念が吾作の仕事を円滑に運ばせた。むしろ
無謀として朝笑いした。だから組合では、稚鮎の購入には共同の便宣さへはかってくれた。
   仕事が、興吉の手に移っても、稚鮎の購入は吾作がとりはからった。それ見たことか、と三度の失敗から
世間の侮辱をますます強くした吾作は、利害関係を超越し、興吉を通じて石にかじりついてもこの仕事を成しと
げたいと言う意地があった。意地の裏には、成功の暁は部落を一丸とした事に乗り出そうという気概があった。
部落の百姓の大半は漁業組合に加盟している。土地が狭盟で田圃だけではめしが食えないのだ。田の草など
は女衆の仕事にし、百姓達は、解禁になるとみんな鮎釣りにでかけた。
  焼けつく様な暑い日である。お茶漬けをかっ込むと吾作は叉すぐ池にかけつけた。鮎は銀鱗を輝かし盛んに
太陽に跳びあがって居た。水口には水の色が墨を流した様に密集して居た。どうだい。見事なもんじゃろう。興
吉は着々仕事が進んで居ることを謳歌する様に鼻をうごめかした。返事もせずに鮎の動態に擬視していた吾作
は、駄目だっ、と唸った。これでは駄目だと、念を押した。興吉はいきなり、何が駄目で!とむかっ腹を立てた。
 針をさした様なことでもすぐむかっ腹を立てるのが興吉の欠点だ。そのために、いつまでたっても村会議員に
なれなかった。以前、興吉は盲腸を病んだことがある。それ以来、あまりむかっ腹を立てると盲腸になるぞ!と
いうのが、部落の注意事項となっていた。 吾作の感ずいたのは、魚は水を飲むのではなく、水中にある酸素を
食うのだ。ちうことである今朝、田圃の四つ角に張ってある掲示板の新聞で一寸目にふれた家庭記事が、吾作
の神経を強く突き刺したのだ。
 鮎は瀬を好み、泡を好むのも、結局、そういう所は酸素の新陳代謝が激しいからだ。短期間に発育する魚族
は特に酸素吸入が激しくなければいけぬ。吾作は池中飼育の失敗の原因が多くここにあったな、とさとった。
 どんどこをつくれ、どんどこを。そして水泡を、池中にこしらえるのだ。吾作の語気が、荒かったので、興吉は
一寸ひやりっとしたが突然笑いだした。泡が餌の代わりになるものか!へへ子供の水遊びじゃあるまいし。そ
して、冗談はよせ。とつけたした。冗談、吾作はむっとした。冗談だと思ったら止せ!吾作は黙って帰った。

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                 (三)
 吾作は機嫌がよかった。もう人の小世話は焼かねぞ。今夜の味噌汁は馬鹿にうめいな。鰹節を入れたのか。
よしておくれよ、鰹節どころか、ここ三年は煮干し一つ買ったことがないんだよ。おかねはぷすなった(愚痴る)
が、今夜の亭主は意外にゆきゆき(浮き浮き)としているので、こんな面、何年振りかと、おかねはそっと吾作を
見直したりした。吾作は澤庵をかじった。ぼりぼりと歯切れのいい音がした。めし粒がひげに白くくっついて顎と
一しょに動いた。満更見捨てたものでもないわ。そしてくすりっとした。
 めしが済むと、いたかい。と興吉がきた。
 吾作もおかねも黙っていた。どうしたい。具合でも悪いかい。明日は行ってくれるだらずなあ、興吉は一人で
喋った。明日?吾作は思わずつぶやいた。そうだ明日は、二回目の仔鮎が到着する日である。約一里先の省
線駅まで、トラックで一萬匹の仔鮎を受け取りに行く事になっていた。
 俺あ嫌いだ。きっぱり言った。吾作のきつい態度に興吉は、取り付く島がなく、そりゃあ、困るとおかねに目で
助勢を求めた。
  興吉ちゃんだって組合関係のあんたが行かなくちゃほんとに困るずら、行っておやりよ。後句は押し付ける様
に言った。内心は、三両の日当がぺけになるのが、おかねにはたまらなく惜しかった。金になることなど、何故
はずすのだとむち打っていた。吾作は二人を尻目に黙ったまま部屋へ引っ込んでしまい、それっきり出てこなか
った。
 朝焼けがした。段々に曇って来た。おかねが昼めしの帰りがけ、山羊の草をむしってゆくと、一足先に帰った
はずの吾作が見あたらなかった。また池か。いまいましそうにつぶやくと裏の内の子供が尻込んで来、ちゃん
貨物に乗ってたど、と告げた、おかねはほっとした。半日とかからねえで三両じゃもん!独りごとをいい。惜しい
わい、と微笑んだ。
 駅には六輌のトラックが待機していた。その中へ興吉と吾作のトラックが勢いよく割り込んだ。吾作は顔馴染の
各区から出かけてきた漁業組合員達にようようとどら声を張り上げて挨拶を送った。
 組合の書記が飛んできた。琵琶湖の方が不良でねえ、半分の五千しか割り当てがないですよと告げた。
 そいつあ困ったな、吾作は興吉を振り返った。でも先に参萬から渡っているし、各河川の配給よりぐっと率が
いいんですからねえ。がまんするさ、と苦笑いした。仕方がない、勿体振って吾作もニヤリとした。
 トラックへズックの水槽を備えると水を少々かい込み、氷をぶっ込んだ。汽車が来、貨車が着くと貨車を中心
にトラックは尻を向けて並んだ。順々に貨車の水槽から水槽一個五千匹の仔鮎が、水ごてらおしあけられた。
貨車の水が流れ出た。あたり一面、引継ぎ作業でこねっ返し、泥沼の様になった。興吉の番である。トラックが
動いて、ピッタリ貨車にくっつくと、うす鈍い陽がちらっと差しはじめた。水槽から水槽へ物凄い勢いで鮎諸共に
水が押しあけられた、その中途から、突然!一匹の鮎が跳ね上がった。泥の中へ逃げ出した。さっと、隣の組
合員が手を出した。馬鹿っ!声と一しょに吾作は車から飛び降りた。忙しく二人の手が鮎を捕まえようとし、膝
をついた吾作は息をはずませ、相手を睨みつけた。相手も吾作に対抗した。よせよせ。他の組合員達が二人の
間へ割り込もうとした瞬間、泥の中でわからなくなった鮎が、一寸泥をはねた。一人がぬっと手を出してつかまえ
た。泥が飛んだ。吾作のいきなり立った泥だらけの手が、そいつの横っ面をはり飛ばした。止めろ止めろ、多く
の組合員達が三つの泥人形の真ん中へ押し合いなだれこんだ。
   

 

    以上「鮎」をまとめました、この短編小説が親父の最高の出来と 絶賛されたものです。        

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  仙   造  日  誌
                                                                                  昭和15年1月2日

                                                 東 町 唄

 
 理髪組合長古畑仙造は、齢67を越し、もうぽくぽく、と歩く事も、仲々大儀であった。色褪せた外套をひっ
かけ、汚点だらけの中折帽子も別に白髪を隠すというわけでもなく、ただ永い間の習慣から、頭の上に載せて
あるとゆうに過ぎなかった。商売柄にも似合わず無精髭をたくわえ、髭の先には時偶水っ夷さへも光っていた。
 組合長自身が組合費の滞納整理に駈けずり廻らなければならぬとは、もう組合もおしまいだ、と腹の中で、
仙造は幾度も慨嘆した。月額五十銭の組合費も、完納しているものは五十人からの組合員中、僅か数人
に過ぎなかった。みんな独立した店舗を持ち、それをめしの種にし、結局は納めなければならぬ性質のもので
あってみれば、一概に、ずるい!とも決めてかかるわけにもゆかなかった。ない袖は振れないからである。
 仙造は疲れていた。しゃつのかくしの中では財布もよれよれに、疲れたような顔をしていた。温まってはいた
が、七軒も廻って、まだ一銭も入ってはいなかったのである。
  「おくまさん、いたかい」
表に藤の木があって、藤床とゆう店の用口から、様子の知った茶の間へあがり込んで、やれやれと仙造は
腰をのばした。そして誰もいない炬燵にしがみついた。
 「枠ですかい」
裏のほうから、おくま婆さんの声だけがした。
 「いねぇかい、心平は」
 「いやしねわ」
 「じき、けえるかい」
 「どうずらか」
 「どけぇ、行ったね」
 「木屋ですわ」
 「横町のかい」
 「なんの、大澤ですわい」
大澤?鸚鵡返しに、仙造はおったまげた様につぶやいた。大澤と言えば、此処から三里の上も離れている
所の大きな製材所なのだ。心平は、店の暖炉の燃料、おが屑の買出しにでも行ったのだろう。
 そう言えば事変下の燃料不足から、石炭も薪も、仲々思うようには手に入らなくなった。よしんば入った所
で噸三十二円の石炭や両に四把の松割木を焚いていたでは、バリカンをばちゃばちゃっていたでは、間尺
に合う筈がなかった。追い詰められた製材所のおが屑も、また工場や浴場の手が延びて、もう近頃は町内
での入手は仲々困難になって来たのだ。昔は人夫を雇って捨てたというおが屑だったが、じんじんにせり
上げられて一かます三十銭位にまで高騰した。それも三里もの在まで出掛けなければ手に入らなくなった
のかと思えば人事ならず、暗澹とせずにはいられなかった。
 障子が開き、待っていたってちょっくら帰らんぞ!と言ってるみたいに、あばた面の厚い唇を歪めおくまは
にたりっと入ってきた。組合長がこの寒空に、じかにやって来るなどと申すことは、どうせ碌なことではない
!と本能的に、おくまはそう思った。死んだ亭主の組合長時代のしきたりも、またよく知っていたからである
。  「けぇったら、わしが来たってな」
そうせってくんな、と仙造は入り替わり立ちあがった。
 「何か、用ですかい」
一年も、組合費をひきずってることを百も承知の上で、おくまはしらばっくれて訊いた。そうしたことには馴れ
きっている程貧乏もして来、また仙造も馴らされて来た。
 「新店が、また殖えるってほんとですかい」
 「そんならしいな」
 「仲間が殖えても、仕事さえ減らなければええがな」
 「共食いさ、組合も結構潰れちまうわ」
深刻な顔をして、仙造は藤床を出た。
 
 町内の店舗は十六軒。他は郡部に属していた。嘗て県衛生課の研究によると、一戸平均、家族五人とみて
業者の生活は、月七十五円以上の実収をみなければ、食っていかれぬとゆうことだった。これは事変前の
物価指数に依るもので、悪性インフレを伝える今日、すでに一般生計費は事変前に比較し三十%からの騰貴

         

を示していた。その上、いはば作業上必要とする器具、化粧品類は二十割から四十割の高騰来たし、約五%
から十八%の加算をしなければならぬ状態で、つまり従来の実収に四十五%からの増収を期さなければ食って
ゆかれないのであった。
 顧客の平均は一戸一人とし、月一回の調髪が標準であり、今かりに、事変前月七十五円の実収を得るには
業者一軒に対し、顧客約二百五十人を必要とした。それは現在「刈込四十銭」「顔そり二十銭」を規定する料
金の中間一人三十銭を標準に限定してのことである。従って店舗一軒に対し、二百五十戸の按分は、動かす
ことの出来ぬ、決定的な生命線なのだ。
 それにも拘らず、戸数二千六百戸の、この町内に同業者十六軒の存在は、店舗一軒に対し約百六十戸に
しか過ぎず、これでは食えない方が道理なのだ。其処に大きな無理があった。人口が倍加するか、業者が
半滅するか、食いぬける道は二つに一つであった。だが現実は、どうにもならないのである。このうえ叉新店
がたとえ一軒でも割り込むとゆうことになれば、それだけ叉、仲間の生活は追いつめられねばならないのだ。
言い知れぬ不安を感じるのは、おくま一人ばかりではなかった。
 尾美理髪店は最近「理容館」と看板を塗り替えて、電気バリカンも購入し、両目を一新したばかりだった。
 

 「ラジオも入れたってな、調子はいいかい」

 「調子が悪いからいれたんですわ」
景気と感違いをし、電バリの需要もあまりないらしい、尾美常吉は、炬燵でいい気持ちになって舟をこいで
いた。それを、邪魔されたのが癪だ!と言わぬばかりの、素気ない挨拶である。
 「おっぱいの方も相変わらずかな」
 「商売はあてにならなくとも、あっちは月給でやすからねぇ、やめられやせんわ」
常吉は、内職に朝夕、牛乳配達をして稼いでいた。店がひまで、労力があり余っているとゆうよりも、そうしな
ければ生計が支え切れなかったのだ。彼ばかりでなく、また二足のわらじを履く者が仲間には多かった。
 「月に、いくらかな」
 「二枚半ですは」
 「二十五円!か、てぇした稼ぎだ」
たが、そうしなければならぬ日常をよく知っていたので、何とも言えなかった。
 「内職も大事だが、本職もだいじにしなよ」
 「本職が内職で、内職が本職みてえなこともありゃしてね」
 「それも仕方がねぇ。だが本業は本業、いつまでたっても本業は本業だからな」
 「げぇぶん(外聞)も大切でごわすが、四人もの餓鬼共に食いまくられては、背に腹は代えられやせんしねぇ」
 「無理もねぇこった」
仙造は何も言わずまた表へでた。組合費の事などはおくびにも出さなかった。言い出せなかったのである。
 「何しろ税金でせぇ、丁度っこにゆかね始末なんで、ねぇ」
追いかける様に、仙造の来た理由を察知した柔手の声が、後からかぶさって来た。たとへ腹の中では、組合
費なんかなんちょう!とあざけっていても、腹の底にその事が沁み込んでさえ居ればそれでいい、と仙造は黙
  ってうなずくのだった。
 家へ帰ると、灯が着いた。
 「先っきから、待っていやした」
新聞を見入っていた幹事の倉本がぺこりっと頭を下げた。額が大分禿げ上って顔の面積が広くなり、横の方か
らかきあげた応援隊の、一本並びの薄い毛が、チックでヘバリついていた。
 「ネクタイなんかでしゃれこんで、何だね」
 「商売ですわ、今日は」
 「商売!あんたは床屋じゃろう」
 「保険屋をはじめやした」
 「また、内職かな」
 「結局は、そうなんで」
 「わしも一本、入るかな」
 「眞平ですは」
 「いけんかね」
 「棺桶を契約するような隠居なんか、駄目ですわ」
 「商売でも、駄目かね」
 「隠居は駄目でも、娘さんを一つ。すっかり契約書をこしらえて来やした、印だけ押して貰えばそれでいい」
倉本は、黒鞄から用紙を取り出した。
客が来たので、仙造は、見向きもせず、白衣をひっかけて、おいでなんし、と店へ出た。四五歳の女の子だった
。クロームの眼鏡をかけた痩せ形の奥さんが付き添って来、あまり見かけぬ新客だった。
 「オカッパですな」
 「ええ、なるべく明朗型にやって頂戴」
 「はあ、めろ型ですな」
発音が一寸変なので仙造にはよく呑み込めなかったが、合槌をうち、子供を椅子に抱き上げた。刈布を巻いて
、水ブラッシュで髪を揃え、上耳あたりから力鋏を入れて線をつけた。
 「母ちゃん、おしっこ」
もずもずしていた子供が急に立ち上がった。もうすんでの所で耳を差しそうになり、仙造は思はず冷汗をかい
た。おしっこをすまして叉はじめると、今度はストーブの側がいいと駄々をこね、椅子から飛び降りてしまった。
そのうちに椅子から椅子へ渡り歩いたり、しまいには客待ちのボックスへ這い上がり、どしんどしんとスプリング
の反動を面白がったり、仙造は、鋏と櫛を持ったまま子供のあとを追いかけ廻し、ほとほと当惑した。
。こうゆう客は、実に苦手なのだ。
 「仲々、お元気ですなあ」
皮肉ともつかず、嘆声した。
 「本当に困りますの、うちでは自由主義にそだてていますんでねぇ」
 「ははあ、自由主義ですか」

 

奥さんのお先が知れるような気がした。
 「一時間の上もかかって金二十銭也か、むしろ迷惑ですなあ、ああゆう客は」
倉本も、身に覚えがあるので苦笑した。
 「これも、商売さ」
 「先達も仲間が湯でこぼしていたんですが、米もあがったし、炭もあがった。物によっては金を並べても手に入
 らぬし、いよいよやり切れなくなりやした」
 「わしもやりきれなくなった」
 「値上げをしてくれと、仲間からは矢攻め楯攻めですわい。刈り込み一つで米二升は買えたものが、今じゃ、
 一升と買えねぇ」
 「わしも値上げをしたくなった」
 「思い切って、何とかならぬものですかい」
 「国策じゃでな、上げるわけにもゆかねぇ」
 「床屋じゃ、闇取引もできねぇし、精一杯肉一杯の商売はつれぇこった」
そして仙造は、懸聯の指令を、先走るわけにもゆかねぇし、とっつけ足した。
 倉本は、じっと考え込んだ。そうしてまた思いだしたように、さっきの続きですがね!と別人のごとく、緊張した
面をくずした。
 「保険は、きらいじゃよ」
 「商売始めに、吝をつけられては困りやす。わっしは、人のためにすすめるんじゃごわしね、みんな自分のため
 ですわ」
 「教わってきたな、手を。いやにはっきりしとる。だがな、銭をしぼることよりも、持ち込むことも考えた方が、人
 によろこばれるがな」
 「そこですは、誰かを紹介してくれれば、いいですわ」
 「いや、保険屋の御手伝いは御免だな。あんたも組合の役員だったら、床屋は床屋で生きることを考えるんだ
 な」
 然し倉本も、言われるまでもなく叉、若い時は一角の夢を描いていた。椅子を幾つも並べて、人を雇い、技術
を売り物に所謂薄利多売主義で店を繁昌させることが、随一の希望であった。叉、誰しもそれを希い、望んで
いた。昔はそれでよかったのである。当時は、町内にも確か五六軒の店舗しかなく、多少は戸数も、現在より
は少なくとも、それでも一軒あたり三百五十戸からの割合だった。従って、内職などをするひまもない程、店は
盛ったし、しなくても結構、商売一筋で気楽に食って行かれたのだ。
 それがいつしか仲間が殖え、現在は三倍にもなった。その上、叉新店が割り込んで来る。結局顧客は分割
され、椅子を増やすどころか、一人でも労力はあり余るような結果になって、何れも夢なく昔の夢を捨てなければ
ならなくなったのである。そして時局の反映は、また多くの人を、都市に転出し、丸刈りは流行る、自家用虎刈は
殖える。とどのつまりは減った仕事の、料金値上げなのだが、どっこいそれも低物価政策に押さえられて動きが
とれぬのだ。
 倉本ばかりでなく、仲間の脳裡に日一日と深く去来するものは、結局、昏迷と不安の焦燥なのだ。
   
定休十七日夜。親睦を目的とした月例会のあと、新平は仙造と二人っきりになると、
 「いよいよ臨時総会、とゆうもんでしょうな」
と、先程の値上論の沸騰を思い浮かべて、割きれぬような苦笑をした。
 「これも仕方がねぇ。駄目と分かっていても、わし一人でみんなの気持ちを黙殺するわけにもゆかねぇしな」
 「つれぇ、しょうべぇですな」
 「これも、しょうべぇか」
へつへつと、仙造も苦笑した。
 「五銭や十銭、上がった所で楽にもなるまいよ。溺れたものは稿でも掴む!の例えじゃろ」
 「古馬穴の、穴ふさげとゆうもんですな。じきに叉、ほかの方へも穴があく。だがおらは、組合長とは叉別の
 意味で、もっと困る方がいい、みんな、とことんまで追いつめられてどうにもならぬとゆう所まで,行っていまう
 方が、いいと思ってやす」
 「困る方が、いいかい」
 「いい?とゆうわけでごわしねが。そうなれば、叉生き抜く方法もある」
 「それも そうだな」
 「生じつか、食ってゆかれるとゆうことが、なにかにつけて、思い切った仕事をするのに、いつも癌ですわい」
 「きびしいな」
 「おらは、もう腹をきめてやす」
 「何をきめたのかな」
 「それじゃ、めしの食い上げだ」
滅相な!といわんばかりの面付である。
 「それから、叉新規巻き直しでお始めるんですわ」
新平の、言う所によると、まづ現在の店舗は全部畳んでしまい、十六人の業者を一体とした一つの強固な理髪
会社を創設しょうとゆうのである。各自は町の中から、成る可く家賃の安い、生計費の切り詰められるような、
田圃に近い方へ一歩退却して生活をする。
 
 会社は改めて、設備満端の完備した、業者自身においても、勿論であるが、一般顧客に対しては特に、これな
ら理想だ!とゆうような新鮮な感じを、せいぜい三ヶ所位に新設する。位置は現在の店舗のうちから、それぞれ
の要所を選定してもよい。そして業者は、つまり会社員を意味するわけだが、自宅から毎日、三ヶ所の店舗で
ある職場へ通勤して商売に勤務する、とゆうのである。
 具体的には、作業上における労力の等分。交替制の問題。技術上の統一。化粧品の製造及び販売部の設置
。月給制度と扶養家族に関する事項。吉凶に対する互助政策。生命保険及健康保険の加入等。各自の生活面
においても叉、日常必需物資の供同購入。私生活の改善。健康促進と文化及教養のための施設等々。つまり
十六軒の店を三軒くらいに切り詰めた、徹底的な経営の合理化と、生活改善の実践。余剰労力の徹底的な活
用である。床屋商売を前面に押し出しての、生活向上を意図した立案であった。
   資金の問題は、全町の風潰しの協賛を得、最小限度の、いわばポケットマネーで充分足りるような、気楽に
出資の出来る程度の株式組織にし、つまり店舗と顧客を密接に結びつけて、営業能率に拍車をかける様にす
る。この場合あくまでも一人は一株を原則とし、勿論業者の出資は多いほど条件は有利であるが、極力金融資
本家に乗っ取られぬ様に警戒をせねばならぬのだった。金融資本家の手中に帰する場合になると、おそらく
業者はより以上の苦杯をなめなければならぬことは自明であった。叉そのよき意図も、そうなると必ずや喪失
する結果になるであろう。
 無口で、必要以外には、減多にものを言わぬ彼である。その心平が、ぽつりぽつりと底力のこもった声で吐き
出す立案は、やれば出来る、とゆうことでなしに、こうしなければならぬのだとゆう圧力さえも感じられ、仙造は
、異状の昂奮さえも覚えるのだった。同時に叉、この統制経済下に於いて、それは他の業態にも共通する所
の性格を持っていた。
 「だが一つこれを生かすも,殺すも、この町内に於ける、独占権の獲得如何で、またそれは業者の死活をも左
 右するものですは」
心平は、じろりっと、仙造をみつめた。
 物も言わず、深更まで、食い入るように、時には半ば、唸るようにきき耳立てていた仙造は、今更のように
自分の歳などを振り返って見、荷が重い!と考えぬでもなかったが、じきに叉、商売一筋への情熱が、むくり
あがって来、たちまちそうした気持を吹き飛ばし、血脈の躍動して来るのを、判っきりと意識するのだった。
 「裸で、ぶつかるのだ、裸で!」
 「だが真っ先に、おらはおふくろに、真っ向から反対された」
 「反対かい、おくまさんは」
 「そして頭下しに、どやされた」
ーーやり損くなったらどうする。死に際へ来て、ひぼしになるわ。
ーーじゃあ、このままなら、どうにかなるのかい。
ーーばかやろ奴。
 「とゆうわけですわ」
 「無理もねぇ。ちょくら簡単にってゆうわけには、ゆかねぇからな」
 「と言って、他人事では、ごわしねわ」
心平は、冷えてきた炬燵やぐらをぐっと力強く握りしめた。
 「冥土の土産が、叉殖えたかな」
仙造も、また脂汗を滲ませて、しっかりやぐらの足を、握っていた。

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