きゅうり無人直売所
 昭和60年、きゅうり農家4人が作った小さな無人販売所。丸子の直売所の歴史はここから始まり、やがて大きな広がりを見せていきます。農家に流れる時間はとてもゆっくりで 新しい直売所ができたからといって、今の農業の現状がすぐに変わるものではなく、その変化は目に見えないかもしれません。でも約20年前に植えられた地産地消の小さな苗は、今こうして確実に大きくなってきています。
 以下の「花開け地産地消1〜9」連載は、旧丸子町の直売や加工の今までの取り組みを紹介しています。
花開け地産地消1

「こんなに寒くてホウレンソウ発芽するかな?」「とにかく播いてやってみましょう」こんな会話から冬場の栽培実験がはじまった。1月8日にハウス内に播かれた種は、早朝の外気温マイナス12度の中でも、保温シートをかけたトンネル内は0度を保ち、10日後には一斉に双葉が開き成長を続けている。
 実はこの栽培実験は、新たに町が建設を予定してる農産物直売センターの運営研究委員会が冬場の野菜生産を支えるために始めたことである。数件の農家が栽培の実験に取り組んでいる。ハウスの中にはホウレンソウ、小松菜、はつか大根、シュンギク、チンゲンサイなどが播かれて成長を続けている。いずれこれらの冬場野菜の栽培結果は、まとめられ、公開されてゆくことになる。いつ、どのような品種を、どのように播けば、いつ頃収穫できる、という一連の情報が蓄積され、明日の地産地消の体制を支えることになる。地味な取り組みだが、欠かせない実験である。
 地産地消という言葉が、日本全国で大きくクローズアップされている昨今だが、実は丸子町における地産地消の取り組みはまもなく20年の歴史を刻むことになる。それは依田地区における小さな農産物無人販売所からはじまったものだ。20年の歴史の中には町内どの直売所でも紆余曲折があったが、大きな流れでみると着実な発展をしてきたと言える。
 これからしばらくこの紙面を借りて、丸子町の地産地消の歴史、現状、町が予定しいてる本格的な農産物直売センターへの取り組み、農業への農家の思いなどを連載でレポートしたい。
このページの上へ
花開け地産地消2・・ 無人販売所の誕生

 「完売!」 よかった。不安の中出発した無人販売所の初日の結果だった。
 昭和六十年七月一日、当時の依田保育園近くの道路脇に小さな無人販売所が誕生した。この無人販売所はキュウリの栽培農家五軒が協力して作ったものだ。B級や加工用となってしまう、曲がっていたり太すぎるキュウリをもっときちんと売りたいと考える中で、このキュウリの無人販売所は誕生した。
 一八年前、もしこの小さな無人販売所が誕生しなかったら、ことによるとその後の町内各地の販売所も誕生しなかったかもしれない。それほど、依田地区で生まれた無人販売所の意味は大きかった。
 依田の無人販売所は、誕生後地域の皆さんに喜ばれたが、他方心ない人により、お金が入らない、金庫が二度にわたり破られるなどのこともあり、無人での限界の末、平成九年には、農協生産センター前に場所を移し、有人農産物直売所グリーンハウスとして一回り大きくなって現在発展している。
 無人販売所を誕生させたキュウリ農家五人の中に生田の関雅則さんがいる。関さんは、一八年間、農業委員をつとめ地域の農業を熱い思いをもって見つめてきた。「当時一緒になって販売所を作った仲間も何人かは亡くなってしまった」と、寂しさを語る関さんだが、農業振興に対する熱い思いと、行政への辛口の批判は、今でも変わらない。「今度は周年を通した販売所の運営ができるようにハウスなどの条件整備をしたい」と、丸子に地産地消の種をまいた関さんは、さらなる発展を目指している。 
このページの上へ
花開け地産地消3・・無人販売所旧丸子に広がる
 
18年前依田地区で生まれたキュウリの無人販売所が契機になって、その後町内各地に無人販売所や有人販売所ができることになる。
 旧丸子地区でも依田のような販売所を作ろうということになり、農協経由で会員募集をした。当初8人の農家が農協に集まり丸子町農産物直販会という会が発足した。17年前のことである。その年の夏、みなみ保育園近くの田を借り、畳1枚分ぐらいの手作りの無人販売所がスタートした。
 「あの頃はおもしろかった」と、当時を知る人は思い出す。よく売れたということもあったが、もっと純粋な気持ちもあった。近所の農家の方は、ある日、のぶきを店に出したが、それがお客さんに大変喜ばれ、翌日遠くの高原にでかけ半日がかりで、のぶきを採ってくると言うこともあった。ガソリン代や手間賃を考えれば赤字だが、それでもお客さんに喜んでもらいたいという気持ちの方が強かった。今、「あの頃」を思い出すのは、最近少々マンネリ化してきたかという自戒もあってのことである。
 この直販会は、腰越に販売所を作ったあと、その後沢田、海戸、下丸子と順次設置し、多いときは4箇所の販売所を持つようになった。また、当時の海戸区長さんからの依頼もあり、ファーストビル前での海戸夜市を週一回開くなど、にぎわいの創出にも一役買ってきた。
 本音を言えば、農家は作ることは得意だが、売る方は得意ではない。特に夏の早朝や夕方は、一番の仕事どきで、その時間を犠牲にするのは切なかった。それでも当時、多くの農家が協力してくれた。今の地産地消につながる道はこのような農家の地道な取り組みが不可欠だったと思う。一緒に取り組みをやってきた農家のうち何人かは亡くなってしまったが、消費者に喜ばれたいという農家の思いは、今も変わることなく受け継がれている。
このページの上へ
花開け地産地消4・・人気の朝市 毎秒500円の売上

 今回は役場前での朝市の活動を紹介したい。
 平成元年、無人販売所に取り組む直売組織が複数になってきたのを契機に、連携をとることを目的に、丸子町農産物直売グループという連絡組織ができた。直売グループが取り組んだ最初の行事は、役場前での朝市で、平成2年から夏と秋に開催し、平成11年まで21回開催した。多くの農家が協力し合ったことと、朝市前日の胃の痛むような思いは今でも忘れられない。
 「毎秒500円の売上」とは、1時間近くの売上合計を秒数で割ったある朝市での売上である。この朝市は一時はすごい人気で、売り出し時間10分前ごろになると、お客さんの熱気がどんどん伝わってきた。「時間まで、まだ売れない」と言っても、お客さんは買いたいものを抱えこんでしまうような状況で、結局5分前ぐらいには売らざるを得なかった。
 千本近くのおでんを仕込んでの無料サービスや、1俵近くの餅をついて販売したりと、農家の協力体制も貴重なものだった。
 ある朝市の時は、大量の荷を準備出来たが、天気予報では雨が一時ふりそうだった。当日の朝、予想どおり5時頃から雨が降り出した。しかし大量に準備した農産物は今更他に持ってゆくことはできない。もはや成功を願い、「この雨は必ずやむ」と信じるしかなかった。思いが通じたのか、雨は1時間程で小雨になり、やがて止んだ。このとき依頼、朝市では雨は降らないと信じ続けたが、実際雨に当たられたことは一度もなかった。
 イベントは大変である。荷を用意すればお客さんが来てくれるかと心配になり、宣伝を先行すれば農家が出荷してくれるかと心配になる。そんな苦労を重ねた朝市も、常設の農産物販売所が発展してきたこともあり、徐々に人気も下火になってきた。現在は、役割は終えたと判断し開催していない。しかし、この中で養った貴重な経験は、いずれ新しい直売センターが出来たときには生かされると思っている。
このページの上へ
花開け地産地消5・・有人販売所で新たな発展へ

 今回は腰越国道沿いにある農産物直売所を紹介する。腰越の農産物直売所は常時店番の方に居てもらう本格的な直売所として発足した。今年は平成3年の開店から13年目を迎える。この直売所誕生の経過については、あまり知られていないので紹介したい。先に役場前での朝市について書いたが、年2回とはいえ大規模の朝市を開催してみて一番の悩みは、売れ残った荷をどうするかということだった。会議の席でこのことが話題になった。「大量に売れ残っても、常時開いている店があれば朝市の後そちらに持ち込んで売ってもらえる。なんとかそんな店が出来ないか」というのが大方の意見だった。そして、そんな会議の中から有人の農産物直売所を作るという方針を直売グループで決めた。
 腰越に場所を貸してくれる人がみつかり話はとんとん拍子で進んだ。問題は腰越直売所の経営主体をどうするかだ。既存の直売組織をそのまま使えないのには理由があった。テント、トイレ、整地などの金も含めると事業費は百万円では足りない。この金を既存の直売所の会員が負担すると言うことでは話はまとまりそうもなかった。
 結局新たな組織を作って会員から出資金を出してもらう方法しかなかった。現在丸子町には、組織の違う団体がいくつか直売に取り組んでいるが、あらたなことを始めるには別組織にせざるを得ないと言うこともあった。逆にいうと、一つの組織にこだわらなかったからこそ発展してきたとも言える。案外これは重要なことだと最近考えている。
 出資金五万円を出し合い腰越直売所の会員募集が始まった。当初の出資金と農協からの個人名義での借り入れを合わせ、百五十万円でテントばりの農産物直売所が開店した。見通しがはっきりしない中、借金を抱えて始まったこともあり当初の店番、会計担当の方の苦労は特別のものがあった。それでも、みんなで知恵を出し合った結果、借金はその年に返済し、その後も直売所は着実に成長をつづけてきた。
このページの上へ
花開け地産地消6・・直売所は福祉に貢献できるのか?・・トンボハウス農産物直売所

 それまでの直売所とは別の発想で生まれたのがトンボハウス農産物直売所である。その誕生の経緯を紹介したい。
 トンボハウスは障害者の共同作業所として平成7年に開所した。それは多くの障害者やその家族の運動の成果として誕生したものだ。長瀬にあった町の授産所の建物を改装し共同作業所を作ろうという話が出たときに、同時に障害者が農園などで作ったものを売ったり、また近くの農家にも出荷してもらえるような農産物直売所が一緒に出来ればどうかという考えが生まれた。このような背景には次のような事情もあった。
 それまで障害者の共同作業所というと、社会の中で目立たないような場所にひっそりと置かれていると言うようなイメージが一部にあった。しかし、運動を進めている関係者や家族の皆さんの中には、丸子で作る共同作業所は、もっと社会の日の当たる場所で、いろいろな人たちが出入りするような開かれた施設にしたい、という思いが強かった。
 どうすれば多くの人たちに関心をもってもらい、多くの人たちが出入りするような共同作業所に出来るのか? そう考えたときに、「農産物直売所を一緒に作れば多く人たちが毎日きてくれる」という発想が生まれた。同時に、その発想は先行していた直売所の成功に裏付けされたのもでもあった。
 早速、長瀬地区を中心とする農家と当時直売所を運営している関係者がトンボハウスに集まり、社会福祉協議会、トンボハウスの職員を交えて具体的な検討がはじまった。そして、作業所よりも少し遅れて、その年の9月からトンボハウス農産物直売所も営業がはじまった。期待どおり多くの消費者が足を運んでくれた。トンボハウス農産物直売所が障害者の共同作業所のイメージを変えた効果は決して小さなものではなかった。毎日何十人とい人達が、買い物ついでに実際の共同作業所を見て交流することが出来たのだから。
 その後トンボハウスは依田への移転もあり本来の共同作業所の活動に専念し、トンボハウス農産物直売所はいったん解散、今は農協長瀬支所前の長瀬農産物直売所として続いている。
 直売所は福祉に貢献できるのか? という問いに対して、私は十分出来ると答えたい。新しい町の直売センターがこれらの取り組みから受け継ぐものがあるとすれば、それは障害者への雇用の場の提供であり、あるいは農産物生産の場であり、あるいは交流の場でもある、と考えている。
このページの上へ
花開け地産地消7・・安心追求の新しい流れ・・EMで挑戦する下丸子農産物直売グループ

今まで紹介してきた直売所とはおもむきの違う直売所が平成13年6月、下丸子に誕生した。この店の特徴は、なんと言っても安全、安心、新鮮を最大の売り物にしていることだ。今注目されているEMボカシを活用して、家庭の生ごみ処理などの取り組みと関連づけて農薬を出来るだけ使わない野菜作りに挑戦している。EM(エフェクティブ マイクロオーガニズムス:有用微生物群)とは琉球大学の比嘉教授によって開発された人間にとって有用な微生物を集合させ培養した微生物群である。光合成菌、乳酸菌、酵母などの有用微生物群が生ごみなどを発酵させ、見事な堆肥に変身させる。もちろん身の回りの土の中にも微生物は数え切れないほど居るので、農業がその微生物に頼ることは当然だが、特別培養されたEMはまた効果が違うとされる。EM菌での野菜作りには注目したいところだ。
 下丸子直売所は夏場を中心に週二回の開催だが、これ以外に地元スーパー・マツヤ店内に売り場を持つ「まごころ直販会」の皆さんと一緒になってそこに新鮮、安全な農産物を提供している。下丸子直売グループの皆さんの出す野菜にはEM栽培と書かれた紙が入れられよく分かるようになっている。スーパー店内の直売コーナーは、夏場には実に豊富な野菜が連日出荷されるので、お客さんにも好評のコーナーである。
 下丸子直売グループの皆さんは「三たい」をモットーにしているという。三たいとは、「やってみたい」、「楽しみたい」、「役立ち(て)たい」である。
 彼岸になりいよいよ本格的な春。みなさんにも楽しい野菜作りをお薦めしたい。
このページの上へ
花開け地産地消8・・もう始まっている朝市にどうぞ

丸子町で冬場も頑張っている朝市をご存知でしょうか?
かくいう私も、この寒い 時期にもう朝市をやっているところがあるとは知りませんでした。過日ある会議の席で、その朝市をやっている皆さんと話す機会があり、驚きました。
 「え? もうやっているんですか!」
 聞くと、今年こそは1月は休んだそうですが、それまでは毎年冬場でも休まず朝市を続けてきたとのこと。
 この朝市とは、音楽村入り口にある物産館・花風里(はなかざり)の前でやっている農産物朝市のことです。朝市を最初に企画したのは、尾野山の長寿会の皆さん。日曜日の朝午前8時ごろから11時半ごろまで開いています。この朝市、はじまって6年が経ったそうです。もう開いているという話を聞いたのでさっそく先週(3月23日)の日曜日に出かけて見ました。時間が遅かったのと場所が場所だけにちょっと人出が多いというわけには行きませんでしたが、この時期としては、いろいろなものが出ていて頑張っているという感じでした。聞くとお客さんの出が早く、私の行った頃には目ぼしいものは売れた後だという事でした。
 しかし何よりも私が敬服したのは、出荷するものも少ないこの時期にあえて寒いテント張りの中で頑張ってやっているという心意気というか、地産地消の見本ともいうべき農家のサービス精神です。このような人達がいるかぎり丸子町の地産地消に未来あり!そんなことを感じました。
このページの上へ
花開け地産地消9・・加工への道を開いた「えだまめの会」のおやき

 今回は、「えだまめ会」の皆さんが作るおやきが生まれるまでの経過を紹介したい。
 平成8年、9年と農業改良普及センターなどが主催する女性農業者セミナー・基礎講座が開かれそこで丸子町の十数名の女性が学んだ。終了したとき、このまま別れるのはもったいないと、「ひとつのさやにおさまって仲良く・・・」というような意味もこめて、「えだまめの会」を作ったとのこと。初年度はえだまめを皆で作り、翌年にはジャガイモなどを栽培した。
 この「えだまめの会」とおやきの結びつきは次のような事情である。若干わたくし事もはいる。
 その頃、直売所の方でもぼつぼつ農産物加工品を売るのが課題になってきていた。ちょうど私の家の作業所の一角に簡単な調理が出来る場所があったが、改造すれば保健所の許可をとれそうと言うことになり、直売所の魅力を増すのを目的に、とりあえずおやきの許可をとった。しかし、誰に作ってもらうかは決まらなかった。そんな時、加工所建設のアドバイスをしてくれていた中島さんという女性普及員の方が「この加工所をぜひ町の活性化に役立つような施設にしてほしい」という言葉を残して転勤していった。おやきの加工所は出来たがやる人がいない。そんな時、えだまめの皆さんがおやきをつくりたいという話になった訳である。偶然でもあった。
 会長の藤森さんは言う。「最初はうまくふくれなかったり、具が中心に来なかったり、何も知らないものどうしで苦労の連続だった。どこへ行ってもおやきがあれば買ってきては研究した。また、どの家でも旦那さんの理解には苦労したようだ。主人の理解なしにはとても続けられない。でも、今年で4年目になるけれど、ここまで続けられたのは、いい仲間がいたから。それと、多少でも利益になるから。最初の頃と比べると作業も効率的になり、速度も倍にはなっている。」  今後の抱負を聞くと、「おいしいおやきを作って事業としてなりたつように拡大、発展させたい。それから、仲間をもっと増やしたい」とのこと。えだまめの皆さんが切り開いた加工品へ取り組みは、必ず多様な形で広がるにちがいない。
                                                   (記 運営組合長)
                                               このページの上へ